2012年11月15日

鴨々川ヤナギ並木

1975(昭和50)年ころの鴨々川沿いのヤナギ並木

失われた景観シリーズも3回目を迎え、テーマは何にしようかと迷っていた。ところが、偶然の機会に恵まれた。  
おあつらえ向きの写真を桜本商店様から提供してもらえたのだ。 これで決まった、テーマは「鴨々川ヤナギ並木」と。


1975(昭和50)年頃の鴨々川沿い散歩道。写真は丸市桜本商店所蔵。

札幌で一、二といわれたシダレヤナギの街路樹が……


上の画像にあるようなヤナギ並木は、この画像にあるように危険木として伐採され、台風で倒れたりして大半を失っている。これも歴史、悲しいヒストリー。

ヒストリーを聞いて「鴨々川ヤナギ並木物語」を書く

ヒストリーを聞いて、ストーリーを撮る「まちあるき授業」に参加した。
引率者を含め4名グループで明治時代創業の桜本商店を訪問。
古いアルバムに貼られた写真を見ながら貴重な話を聞く機会に恵まれた。

提供された1枚の写真に私が撮った写真を加え、聞いた話に私の体験を添えて「鴨々川ヤナギ並木物語」を書きたい思う。体験と言ってもたった11年。

しかし、この間に台風や危険木伐採で多数の柳を失い、もはや柳並木とは言えない状態になってしまった。 
札幌で一、二といわれたシダレヤナギの街路樹が徐々に消え去ろうとしている。 

しかも現在進行形である。これでいいのだろうか? 
失った景観は元に戻すことは出来ないが、記録として残せば何らかの参考になるだろう。

先ず現状を見てみよう! 現地調査

現状を見てから、過去を振り返る。 と言っても過去の資料は1975年の写真が1枚だけ。 手持ちの写真は全て2001年10月以降のものばかりである。 

これだけじゃあ駄目だ。 引き続き情報収集に努めるつもりだ。 

それでも11年間撮り続けた中島公園の写真は、いつか日の目を見ることもあるだろう。

左の画像は、2012年10月19日に撮った鴨々川沿いの柳並木である。この内の何本かは、将来倒れるかも知れない。しかし、この写真は残る。

前置きはこのくらいにして現状を報告する。 

2012年11月9日調査 中島橋〜中州第1号橋 柳並木その後

日本庭園近くの中島橋からキタラ近くの中州第1号橋までの500mを、北から南へと歩いた。 そして、街路樹としてのヤナギ植栽状況を調べた。

現在のカラフルな散歩道になった時点で柳は64本あったと推定する。現状は柳の古木14本、倒木の後に植えられた柳の若木7本計21本

これに対して、倒木した柳の後に植えられた銀杏(イチョウ)は30本。そして倒木の後、何も植えられないで放置された空地が13ヵ所もある。

札幌で一、二といわれたシダレヤナギの街路樹

鴨々川には中島橋がある。 中島橋はかって中島公園への正面入口であった。(中略)そこから川ぶちにシダレヤナギが続く。札幌で一、二といわれるヤナギの街路樹は詩情を誘うに十分なものがある。その数64本、一部は補植されている。  (『中島公園百年』 山崎長吉著より)

2001年10月7日初の撮影 中州1号橋すぐ下流の鴨々川

11年前にデジカメを買った。私の中島公園撮影は、この日から始まった。
下の画像左端は若木から育った銀杏。柳の倒木跡に植えられたと思う。 


上は2001年10月7日、下は11年1ヶ月後の2012年11月5日の撮影。


2012年現在の画像。上の画像と比べると柳は減り銀杏が増えている。

2002年8月18日撮影 鴨々川沿い散歩道の柳並木


日本庭園近くの中島橋からキタラ南西側の中州1号橋までの500mは、散歩道になっている。 
小奇麗な柵とカラー舗装された道だが、川沿いの柳にとっては生きにくい道だったろう。 
相次ぐ倒木でそう思うようになった。

鴨々川をはさんで日本庭園、豊平館、札幌コンサートホール・キタラ等がある。
しかし、この散歩道の目玉は川沿いに植えられた柳の木々だろう。
残念ながら台風で倒れたり、危険木として伐採されたりして、かっての面影はない。 
最近は柳に代わって銀杏が植えられたりしている。

2002年10月2日の台風第21号後に危険木伐採


2002年10月2日の台風第21号は中島公園にもかなりの被害を与えた。
「北海道に30年住んでいるが、こんな経験は最初で最期だろう」と思った。
台風で木が倒れることは予想していたが、木の根が浮かされて危険木になるとは想像できなかった。 
しっかり根を張っていなかったのだろうか。


2002年10月15日危険木伐採作業。残念だが危険防止の為なら仕方ない。


4日後に切られた柳を見ると寂しい。 こうして古い柳は次第に減って行く。 


上と同じ場所10年後の風景。当時植えた若木が育つ。 2012年10月撮影

当時は何とか柳並木を保とうとしたが、最近は倒壊した柳の代わりに銀杏の若木を植えている。 
そのまま放置されている所もあるが、一部は花壇として利用されている。
もはや柳並木の再現は望めないのだろうか。

2003年7月と2012年10月 鴨々川沿いの柳比較

は2003年7月、は2012年10月の撮影。1本無くなっているのが分かる。

本当はもっと沢山倒れた場所を載せたかったが手持ちの写真がない。 
その時に問題意識を持っていないと、後で役に立つ写真は撮れないと実感した。


上の写真と比べて見ると手前の一番太い柳が倒れたことが分かる。たとえ1本でも景観は変わる。 
隠れていた白いビルがはっきりと見える。

2004年5月22日と現在(2012年10月19日)との比較

2004年9月の台風18号が襲う前と、現在の景観との違いを比べてみた。

が2004年、が2012年。 柳が2本減って銀杏の若木が大きくなった。

2004年9月8日、台風第18号が中島公園を襲う

2004年9月8日、台風第18号が中島公園を襲い多くの木々を倒壊させた。
2枚上の画像と比べて見ると、その柳が倒壊したことが分かる。


場所と木の形から見てその柳と分かる。 2004年9月8日台風当日撮影


約1ヵ月後、切られた跡を反対方向から撮影。 2004年10月17日


ホタル橋(渡辺淳一文学館近く)横の柳も倒壊。2004年9月8日台風当日撮影

2012年11月5日 鴨々川沿い柳並木の現状

中島橋から中州第1号橋の間、約500mの鴨々川沿いは自然豊かな楽しい散歩道になっている。 
川を挟んで日本庭園、豊平館、札幌コンサートホール・キタラがある。 
この道の目玉は川沿いの柳並木だったが、すっかり変わってしまった。 
多数の柳が台風などで倒壊し、もはや並木とは言えない。


橋は中島橋、川向こうは日本庭園。 ここには多分柳があったと思う。


中島橋近くには柳並木の一部が残っている。7本程度。


21世紀初期までは、柳が倒れた後は柳の若木が植えられたのだろう。


その後、倒れたまま放置されることもあったようだ。 
中には一旦若木を植えたものの、その若木自体が倒木した跡も見受けられる。


豊平館近くに3本分の倒木跡がある。 
理由があって植えないのだろうか。ここに3本の柳を植える予定かも知れない。
そうすれば柳並木らしくなる。


かってはここも柳並木だったかもしれない。 今は一本だけ。


2004年の台風18号で倒木した跡がある。 渡辺淳一文学館前。


札幌コンサートホール・キタラ裏は並木にはなっているが銀杏が多い。


建物は札幌コンサートホール・キタラ。 銀杏、柳、銀杏と並んでいる。

64本あったと言われている柳は、補植した若木を含めても21本になった。 
しゃれたインターロッキングブロック舗装は柳に向かないのだろうか。ものを作るのは一つの仕事。 
それを維持保全するのも仕事だが、計画段階で維持保全する側との意見交換はあるのだろうか?


画像のキタラ、鴨々川、散歩道と銀杏並木。 2012年6月24日撮影


2012年10月20日 「まちの写真物語」

札幌まちあるき博物館とオオドオリ大学共催の「まちの写真物語」に参加した。 
取材先の「桜本商店」から提供された1枚の写真が、この記事を書くキッカケとなった。 

写真を見ると、こんもりとした柳並木が続いている。 
さっそく現場に行ってみたが、画像の風景はもとより似た風景さえ見られない。景観は柳と共に消えたのだ。

明治43年創業の桜本商店を訪問。


古い写真を見ながら話を聴くと歴史が見えて来て、その場所に行ってみたくなる。


珍しい写真があった。今はない昔の中島公園を撮ったものである。
上は豊平館近くの太鼓橋、よく見ないと分からないが上端に太鼓橋が写っている。
左下は百花園の噴水池、今は噴水もなく、芝生に彫刻と花壇のある「香の広場」。
右下も百花園にあったセメント作りの「森の歌」。現在はブロンズで再鋳造されて児童会館前にある。

柳並木の景観はいかにして失われたか

「鴨々川の柳は、京都の鴨川の柳並木を模して川ぶちの料亭鴨川(南12条西6丁目)が植えたともいわれている。
(『中島公園百年』山崎長吉著)」

約30年前には64本あった柳も、今は14本。その後の補植を合わせても21本しかない。

30本は銀杏に変わり、残りの13ヶ所は何も植えられていない。
柳並木の景観が、なぜ失われたか。台風で倒木とか推測はできるが、それだけではないだろう。

21世紀に入ってからの状況なら、自分なりに把握しているので、とりあえず21世紀に失われた柳についてまとめてみた。

2002年10月の台風第21号以前の柳


キタラ裏を流れる鴨々川。この頃は柳もかなり残っていた。 2002年1月23日撮影。


同じ場所の反対側。同年3月25日撮影。


同じ場所の春景色。同年4月7日撮影。

2002年10月2日の台風第21号の被害


鴨々川の写真は撮りそこなったが、同じ柳が菖蒲池南側でも倒木。
「根が浮く」という状態分かったような気がした。10月3日撮影


調査の結果、根が浮いていることが判明。 倒木の恐れがあるので伐採。 
動物で言えば安楽死だろうか? 2002年10月19日


心優しい人により伐採された柳に別れの花が添えられた。2002年10月19日撮影

2004年の台風第18号以前の柳


2002年の台風は2年後に襲った台風18号に比べれば軽微な被害だった。
中州第1号橋上より撮影。2004年5月22日

2004年9月8日の台風第18号で被害甚大

上の画像にある柳2本も倒れた。 
2年前の台風では生き残った柳も、次に遭遇した台風第18号には耐え切れなかった。
根はしっかり張っていたようだが折れてしまった。想定外の木折れかも知れない。


軒並み折れた柳。2004年9月8日撮影。

現状を見て未来を考える 2012年11月

以下の画像は2012年11月5日に撮影。先ずは、現状を見て未来を考えたいと思う。

中島橋から公園橋の間、言い換えれば日本庭園近くから豊平館近くの間は、
下の画像の様に木を植えてない場所が多い。 同時に柳の古木も比較的多く生き残っている。

それに比べて公園橋から中州橋の間、言い換えればキタラ裏はほとんど銀杏に代わって来ている。 

この状況を踏まえ、もし柳並木を残すなら、中島橋から公園橋の間と考えるのが、費用対効果の面から考えて妥当と思う。


柳並木を再現するにはどうしたらよいか、樹木の知識はないが自分なりに考えてみた。
単なる思い付きとしか言いようはないが、ここには柳の若木を植えたらよいと思う。


ここは中島橋に2番目に近い。柳がいい。


既に柳が補植されているので柳が続く。


次なるここにも柳を補植したらいいと思う。


その次がここだから、柳がいいだろう。


この辺は空地が続いている。


上と重複するが、三つの空き地にも柳植栽。
そうすれば、中島橋、公園橋間、言い換えれば、日本庭園裏から豊平館裏までに、
昔のような詩情を誘う柳並木が復活する。


公園橋を過ぎるとキタラ裏となる。 この辺りはほとんど銀杏と入れ替わっている。
柳も少ないので、このままでいいと思う。


渡辺淳一文学館前のホタル橋にわずかに残る柳は、あるものはそのままでいいだろう。


一旦、若木を植えても折れてしまう場合もある。黒いのは切り株。ここはキタラ裏。


所々に何も植えてない空き地がある。


ここにも空き地あり。建物はキタラ。


キタラ裏の銀杏の若木も育っている。


すっかり銀杏並木に変身した中州橋付近。

現状から見て、公園橋の北側に柳並木を復活させたらどうか考えてみた。  
しかし、せっかく植えても風水害に耐えられるか分からない。以上は私の思いつきに過ぎない。

鴨々川ヤナギ並木物語とは?

「『鴨々川ヤナギ並木物語』とか言ってたな。どこが物語りなんだ」
「鴨々川の柳並木の一部始終について書いたつもりです」
「『推定』とか『そう思う』『思いつき』とかが多すぎるぞ」
「それが辛いところです。断定できることが少ないのです」

正確な事実は把握していないが、台風後の倒木は見てきた。 
しかし、倒木や危険木の原因は他にもあるだろう。

正確な記録とはいえないので「物語」とした。  
自分なりに一所懸命調べて書いたが、残念ながら推測が多い。
思い込みもあるかも知れない。これを機会に更なる情報収集に努めたい。
札幌の代表的な柳並木が訳の分からないうちに消えるのは良くないと思う。
一定の議論をすれば次に繋がるだろう。

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2012年11月12日

ランドマークの木

この風景に見覚えがあるだろうか? 今はない大きなポプラ。
2006年8月21日に危険木として伐採されたのだ。 もう見られない(寂)。

今はない この木何の木 ランドマークの木?


札幌コンサートホール前にあった巨大ポプラ。2006年8月10日撮影

「キタラ前の名物ポプラが危険木として伐採されました」
「コンサートには何回も行ったが、ポプラには気づかなかったな」
「皆さんの無関心がこの木を倒したのです!」
「危険木なんだろう。突然倒れたら危ないじゃないか」
「2004年の猛烈な台風18号でもびくともしないポプラです。倒れるもんですか」
「ポプラは風に弱い。伐採しなけりゃ危ない。あの台風でもバタバタ倒れたぞ」


シンボル的な大木がなくなり空だけが虚しく広がる。 2012年10月12日撮影

「大きなポプラがなくなって寂しくなりましたね」
「空は広いしポプラの下敷きになる心配もない。俺は嬉しいサッパリしたよ」
「景観に関して、大木が果たす役割の大きさを感じます」
「重さも感じるねぇ。危険木があったら怖くて歩けないよ」
「実は、この木の役割は景観だけではないのです」
「そうかい」


百花園のあった1970年代の写真。背景は藻岩山。 札幌市文化資料室所蔵

「右上に直立したポプラが見えますね」
「なるほど。あの木の後ろにキタラが建ったんだな」
「あのポプラのお陰で、今はなき百花園の位置を推測できるのです」
「つまり、目印として役立っているのだな」
「そのとおり! ランドマークとしても重要なポプラでした」


百花園の跡地。中島公園ほぼ中央の「香の広場」。 2004年4月8日撮影

「藻岩山とキタラ前のポプラを見れば、ここが百花園だったことが分かります」
「ビルが邪魔だな。藻岩山が見えなくなってしまうぞ」
「心配ですね。藻岩山の景観があってこその中島公園です」


キタラ前のポプラが伐採された後の「香の広場」。 2011年7月11日撮影

「木が生い茂っていても、キタラが見えるから便利じゃないか」
「全ての園路はキタラに通じています。迷うことなどありません」
「寄り道もしたいし、近道もしたいぞ」
「それではポプラの跡地に目印を建てましょう」
「新しいランドマークか。ポプラと同じ高さがいいな」
「そうですね。『ここに中島公園のシンボル的なポプラがあった』と書くのです」

中島公園の歴史は札幌の歴史そのものと思う。 
例えば、このポプラにしても時代とともに周囲は変化してきた。
最初は明治・大正時代の岡田花園、次に昭和初期の初代「子供の国」、
新設された「子供の国」、そして現在の札幌コンサートホール・キタラ。

周囲が変化しても、ポプラは同じ位置に立っていた。
そして、2006年8月21日に危険木として伐採された。 
大きなポプラとともに歴史上のランドマークを失ってしまったのだ。

古い写真を見ても、この木があることにより現在の場所か分かる。 
しかし、なくしたら目印を失い分からなくなってしまう。代替物が必要と思う。

2006年8月21日 危険木としてキタラ前のポプラ伐採

2006年11月5日、「中島パフェ」掲示板に投稿があった。
「……以前キタラ前広場の南にあった大きなポプラはいつ、どうして伐採されたんでしょうか。
大好きな樹だっただけになくなってしまって残念でなりません」


私も残念でならないが、危険木として8月21日に伐採された。
木に縛り付けられた「お知らせ」に次のように書いてあった。
「この木は倒木の恐れのある危険木であるため、8月21日に伐採いたします」


実に堂々としたポプラだ。しかもランドマークの役目も果たしていた。
古い写真を見るとき興味をそそるのは「ここが現在のどこ?」という疑問。
それほど、中島公園は変遷を重ねて来ていたのだ。
大切な緑とともに、場所特定の決め手となる目印を失ってしまった。


伐採作業は大型クレーンや高所作業車を要する大掛かりなものだった。


少しずつ枝が切り取られ、最後は根元から切られた。巨大ポプラの見納め。


根元のほうも何となく傷んでいる感じだが、どうなんだろう?


これは大きな空洞! 中を見れば何時倒れるか分からない感じがする。


大きなポプラがある風景は二度と見られない。理屈は分かるけれど寂しい。 

2006年8月21日 危険木として伐採


いろいろ特徴のある「札幌コンサートホール」だが、今回は1本のポプラの木に注目したいと思う。 
今は無き名物ポプラ。キタラ前のポプラは2006年8月21日、ついに、その姿を消した。 
2004年に中島公園に凄まじい傷跡を残した、台風18号にも耐えた大きなポプラが危険木と診断され伐採されたのでである。 

「台風でも生き残ったのだから、何も慌てて切り倒さなくていいのに」と思うの浅はかな考えだろか?

伐採してバラバラになったポプラを見ると、なんと! 大きな空洞があった。
この木は危険な状態にあったのです。

文句を言われそうなイヤ〜な予感。
「愚かな考えだよ。素人のおせっかいだ」
「穴があったら入りたいです」
「そこにあるよ。おあつらえ向きの空洞が」


「入るからその木を柵の外にだして下さい」
「………」
「さあさあ、早く〜」


柵の中は関係者以外立入禁止です。どこかで聞いたような話ですね。
一休さんのマネです。失礼しました。


かなり大掛かりな作業。経費はどのくらい?

以下、札幌市文化資料室所蔵の画像。

文化資料室の写真から「キタラ前のポプラ」らしいものを集めてみたが、どうだろうか?

左側の大木は?

真偽のほどは分からないのだが、「これは違う」とか「そう思うとか」、
話題になることを期待して掲載している。


彼方に写っている藻岩山との関係で、あのポプラと推定したがいかがなものか。
時代は昭和初期と勝手に推定。ポプラはともかく、左の大木はなに?

演出された昭和初期の撮影?


現在のデジカメ時代と違って、写真を撮るのは、カメラから現像までお金がかかる時代。

この写真からは「写真を撮るから、こうしてくれ」という演出が感じられる。
というと、昭和初期かもしれない。撮影者の位置によっては、藻岩山とポプラがこのように見えると推定したが……?

以前あった百花園だろうか?


左側にぼんやりと小さく見えるのが噴水の中にあった彫刻「森の歌」とするならば、
あのポプラに違いない。もしそうならば、1960年代の撮影と思う。

この写真でキタラ前ポプラと推定


1970年代、まだ百花園があった頃のの画像。藻岩山と比べての位置からポプラがキタラ前のものと推定した。

そうだとするならば、ランドマークとして重要な樹と言える。伐採して目印を失ってしまった影響は大きいと思う。

伐採跡地に新ランドマークを!

代替物は小さいものなら、ポプラと同じ高さの棒、大きいものなら展望台がいい。
展望台の高さをポプラと同じ高さにして、「在りし日のポプラになって見渡してみよう」
とか書いたら面白いかも知れない。

現在の形となった中島公園


文化資料室の文書には2000年(平成12年)の撮影と書いてある。
札幌コンサートホール・キタラとポプラ、手前に「みどり子ちゃんファミリー」が見えている。 
これが現在の中島公園の形である。

以上、札幌市文化資料室所蔵の画像。


将来のために

中島公園こそ札幌の老舗公園と思っている。中島公園の歴史は札幌の歴史そのものとも考えている。

中島公園は札幌の発展に合わせて、変化を重ねてきたが、その痕跡はほとんど消失されている。

ホームページ「中島パフェ」を開設してから来年の春で10年。
せめて21世紀の歴史だけでもキッチリと残したいと考える。

10年後、100年後、出来れば1000年後にも役立ってほしいと願っている。

伐採現場上空で騒ぐカラス


「俺達の住処をどうしてくれる」とカラス?

近くで見れば大きなポプラ


ああ、人間はちいさいな〜。

タグ:キタラ
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失われたムクドリの木

失われた景観 〜ムクドリの木〜

2001年秋より中島公園の写真を撮り続けた。初期の写真には今はない景観が記録されている。
このまま埋もれさせておくのは、もったいない。
情報化社会では泡一粒のような記録も集積され解析されれば価値を生む。

今はない この木何の木 ムクドリの木?


2003年11月16日撮影。2009年11月中央の木は危険木として伐採。

2004年9月8日、台風第18号が中島公園を襲い多くの木々を倒壊させた。
しかし菖蒲池のシンボル的存在のこの木は残った。台風に負けなかったのだ。
あれから5年、まさかこの木が伐採されるとは夢にも思わなかったが、写真を撮っておいてホントによかった。
虹を撮ったら木が写っていたのだ。

2009年10月15日 大きな枝が折れて落ちる


威容を誇った大木は内部から蝕まれていたようだ。支えきれずに折れた枝。
折れた跡にポッカリと大きな穴。これは大変どうなることかと思ったが。

2009年10月28日 しばらくそのままの状態


大きな空洞があり倒壊の恐れがあるので伐採について検討中の様だ。
池の中島だがボートは寄ってくる。何時倒れるか分からない危険木である。

2009年11月28日 ついに切り倒される


伐採は寂しいけれど仕方がない。素人目にも倒れそうに見える。
補強して支える方法はあったのだろうか、その為の費用は?結局、伐採されることになった。 

長い間 菖蒲池のシンボル的な木だった


2004年5月5日撮影。これより5年後、右側の大きな枝が折れて伐採となる。大きくて枝ぶりのよい木。 
中島公園の景観として欠かせない木だった。しかし、突然倒れたら危険だ。それは分かるけれど惜しい。


2001年10月20日撮影。デジカメ買って初めて撮ったお気に入りの木。
「お気に入りの木」と言うのは後講釈。池周りの紅葉を撮ったら写っていた。
中島公園に詳しい人から大切な木と聞いて、お気に入りになった。

ムクドリ親子の巣があった想い出の木

2005年6月3日、「こまどり日記」というブログを運営しているコマドリさんからメールでお知らせがあった。
この木からムクドリが巣立つのを見たそうだ。

「今朝(3日)中島公園を9時ごろ散歩をしてましたら ムクドリの巣立ちを見ました。
ムクドリの両親がパンのえさを運んでいきます。まもなくすると中から数羽の子供が巣立って出てきました。
まだ中にいるようです。翌日もいるかどうかは分かりませんが もし好かったら見てください。 コマドリ」

ムクドリの巣を見つけるなり、スラスラスラと持参のノートパソコンに描いてしまうのだから凄い。
まるで神業のようだ。翌日巣を見に行くと、洞の中にヒナが2羽いるのが確認できた。
こんな場所でヒナを見るのは初めての経験。この様な想い出をもつ木を失ってしまって残念。 
惜しいことをしたものだ。


2002年10月23日撮影。倒れそうには見えないが外見では分からない。
こうして見ると、中島のギリギリの所に立っていたハルニレなのである。ムクドリの木の樹木名はハルニレと思う。

2009年10月28日 折れた大きな枝


2004年9月8日の台風18号でも生き残った木だが、5年後に下の方の枝が折れた。

折れた跡には大きな洞が


これでは、この上の部分を支えきれない。この木に想い出をもつ人は多い。
2004年の台風第18号の後、「あの木は大丈夫ですか?」とメールで問合せがあった。

在りし日のムクドリの木 春夏秋冬


春 2002年7月27日撮影


夏 2004年8月22日撮影


秋 2003年10月14日撮影


冬 2002年3月25日撮影。
春先の氷面に融けかけの特徴がある。 来そうで来ない春。

ムクドリ親子の巣があった想い出の木

「何とか残す道はなかったのでしょうか」
「高田松原の『奇跡の一本松』の様にか。無理、絶対にムリ」
「根もはっていた様だし補強などして生かせなかったでしょうか」

「ところで、あの木は何の木だ」
「ムクドリの木です」
「それじゃダメだ。名前も知らんのか!」
「しかし、ムクドリの故郷なのです」
「そんなの絶対にダメ!」

「生まれた家を失ったムクドリの子はどうなるのでしょう」
「心配ない」
「死んでしまうかも知れませんよ」
「生きるも死ぬも自然の摂理」

ところで、「ムクドリ親子の巣があった想い出の木」のことだが、
冒頭に書いたように巣立ったのは、7年3か月前の2005年6月3日。
そしてムクドリの平均寿命は8年。しかも自然は厳しい。生きているか微妙なところだ。

泡の一粒ずつが無数の記録を残す

「歴史は勝者が作る」といわれている。これは必ずしも、戦争の勝者という意味だけではない。
人生の勝者も歴史を作る。ほとんどの記録は成功者によって残されているからだ。

「…私たちは一瞬に消えていく泡のような存在ではあるが、その記憶や記録を残すことによって、泡それ自体の息吹を歴史に伝えることができるのです」
北海道新聞2012年9月15日『体験を書きとどめる』ノンフィクション作家 保阪正康氏

私は泡の一粒として、記録を残そうとしている。その際、気を付けているいることが、一つある。
素のままの自分が泡の一粒として記録を残すこと。美化したり飾ったりすると記録を残す意味が薄くなり、もったいない。

記録を残すのも楽じゃない。折角の努力を無にしたくない。 
「泡それ自体の息吹を歴史に伝え」られればそれなりに役に立つ。

同時に自分の想いは書く。いろいろな人が、いろいろな想いを書いて残すことが大切と考えている。 
人類社会で初めて出現したネット社会には、今までと違った記録の残し方があっていいと思う。

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2012年06月22日

明治・大正の岡田花園

優雅な岡田花園の痕跡は天文台だけだろうか。他にも何かある筈だ。

明治・大正時代の痕跡 岡田花園の岡田山


札幌市天文台は小高い築山の上にあり、岡田山と呼ぶ人もいる。
「これが山?」と不思議に思っていたが、岡田花園があったころは少し高かったようだ。

岡田山はもっと高かった

2011年秋に開催された「資産と活用を考えるシンポジュウム」に於ける講演で、
コメンテーターの笠先生は次のように話された。
「…越後から来た岡田左助が、池と水をうまく使った遊園である岡田花園を造っております。
明治42年(1909年)に新渡戸稲造夫妻が来札した時に(当時帝国大学になっておりますが)、
宮部金吾ら札幌農学校の同級生たちが集まって写真を写しております。

実はこれが『岡田山』で岡田花園にあった築山です。これが今では上に天文台が乗っかっていて、
こんなに高い山だったのかとビックリしておりますが、どうも天文台を建てる時に頭を少し低くしたようです」


岡田花園、この山が当時の岡田山だろうか? 札幌市公文書館所蔵

文中の「こちら」をクリックすれば別の写真がある

こんなに高かったのかとビックリした岡田山の写真は、シンポジウム報告書9ページに載っている。
興味ある方ば、こちらをクリックすれば報告書が表示され、そこからたどることができる。

山麓から山頂まで賑った2012年5月21日 日食の朝

「5月21日の金環日食の朝は岡田山が人でいっぱいになりましたね」

「岡田山?」
「天文台のあるあの山ですよ」
「あれでも山か。階段20でテッペンだぞ」
「岡田花園にあったから岡田山なのです」
「岡田花園? 聞いたことないぞ」
「明治22年から大正時代までありましたよ」
「ずいぶん古い話じゃないか。
今で言えばどのあたりかな?」
「日本庭園からキタラあたりまでの広がりがありました。中島公園の西側部分ですね」

1889年から1926年まで存在した岡田花園


池と水をうまく使った岡田花園 札幌市文化資料室所蔵

岡田花園は1889(明治22)年から1926(大正15)年くらいまで存在したが、
はっきりと痕跡を残しているのは天文台くらいだろう。 
岡田山は池を造ったときに出た土を盛って造ったと聞いたことがある。 

岡田花園エリアは、現在の中島公園で言うと日本庭園から豊平館、天文台、
札幌コンサートホール Kitaraあたりと思う。
そして岡田花園は今は住宅地になっている鴨々川のの西側まで広がっていたようだ。

岡田花園の跡地利用は「子供の国」から始まった

園内にあった築山は岡田山と名付けられ、現在は頂上に天文台がある。
「岡田花園が閉園したのは1926年、そして天文台の開館が1958年。その間32年もあるが、どうしていたのだろう」
「近くに『子供の国』が出来たので、岡田山も子供たちの遊び場になっていたと思います」
「今でも天文台スロープで遊んでるな。冬はソリとかスキーとか」

「1926年に国産振興博覧会があり、このとき初代『子供の国』を造ったそうです」
「初代というと次もあったのか?」
「次は1958年の北海道大博覧会で、本格的な『子供の国』になったのです。
そして1995年に円山動物園に移設されました」」


1958年大博覧会での雪印マークを付けた天文台 画像は某所より入手

整理すると1889年岡田花園開園、1926年岡田花園閉園、その跡地南側部分に「子供の国」が造られた。 
そして1958年の北海道大博覧会でも子供の国が作られ、博覧会終了後、札幌振興公社がその運営を引き継いだ。


「子供の国」1958年〜1994年 札幌市公文書館所蔵

そして1997年ほぼ同じ場所に札幌コンサートホールKitaraオープン。
この部分には岡田花園を偲ばせる痕跡はないような気がするが、どうだろうか?

豊平館や日本庭園が出来るまでの跡地利用?

豊平館(1958年移築)や日本庭園(1963年完成)が出来るまでの跡地利用は、どうだったろうか。 
このあたりはよく分からないが「さっぽろ文庫84・中島公園」に、日本庭園についたて次の様な記述がある。

「1955年頃は建築用の樹木を育てる苗圃(びょうほ)があり、花壇に囲まれた相撲の土俵もあった。
当時の未開発地域だったわけで、ここに市民の憩いの場として大規模な日本庭園を造ることにしたのは原田興作市長だった」 

1961年、庭園造成工事が始まり2年かけて完成。 
日本古来の名園を参考に、池の護岸もセメントを使わず石と丸太で組まれている。 
12基の石灯籠は京都の老舗石屋により作られた。
日本庭園は冬季間閉鎖されているが、春のシダレサクラ、秋の紅葉が美しい。

『中島公園百年』には、「池の西端の突出部分は、元は岡田花園内の池であった。
太鼓橋はその名残である。 豊平館、八窓庵は岡田花園の跡地利用にほかならない」と書いてある。 


菖蒲池と豊平館前の池の間に架かる太鼓橋 画像は某所より入手

下のカラー画像は豊平館側から撮ったものだが、位置的に見て太鼓橋に替えて架けられた現在の橋と思う。 


画像の池と岡田花園にあった池との関係はよく分からない。これから調べなければならないことが山ほどある。 
努力も必要だが発見する楽しみもあるだろうと前向きに捉えている。調べていても楽しみいっぱいの中島公園である。

完全に消えた「子供の国」

札幌圏の多くの施設は中島公園を故郷としている。 
かって中島公園にあった施設が、札幌圏に分散しているのだ。

中島競馬場は桑園の札幌競馬場へ、
中島スポーツセンターは豊平公園の北海道立総合体育センター「きたえーる」へ、
冬のスポーツ博物館は大倉山ジャンプ競技場の「札幌ウィンタースポーツミュージアム」へ、
その他いろいろな施設が札幌あるいは近郊の都市へと引っ越して行った。

そして、行くたびかの変遷を重ねて消滅した施設もある。その代表が「子供の国」だ。


子供の国1958-94 札幌市公文書館所蔵

1926年、岡田花園の跡地で開園された
「子供の国」は三たび形を変え2010年、
「円山子供の国キッドランド」として、
84年に及ぶ長い歴史に終止符を打った。

1958年に開園した二代目「子供の国」は、1994年に閉鎖。
その後円山動物園に移転。1995年4月に営業再開。
子供たちの人気を集めたが遊具老朽化の為、2010年9月に閉鎖した。


岡田花園以下、札幌市公文書館所蔵

ここに札幌市公文書館所蔵の写真、絵はがき等の内、岡田花園に関する画像を掲載したつもりだが、
資料室閉鎖の為、日付、場所等の確認が取れなくなってしまった。 

なお、札幌市公文書館所蔵は2013年3月にリニューアル・オープンの予定。 


昔の岡田花園は、なかなか優雅な感じがを漂わせている。右側に日傘をさす女性。
大正時代の絵葉書かな?


同じ場所の違う一枚は落ち着いた風情。


フラワーパークだったそうだが、写真は池のばかりしか見つけられなかった。 
花園のも欲しいところだ。今の中島公園でいえば日本庭園からキタラにかけて広がるエリア。 
池ばかりでなく多様な風景があったと思う。


写真を見ると、どれにも人が配置されている。しかも絵になるように配置されている。

立ったり座ったりしているが、写真を撮ることを意識している姿に見える。昔の写真では人も置物の一つかな?

以上の写真は札幌市公文書館所蔵


管理人nakapaのたわ言

「日本庭園からキタラまで、あれだけ広大なエリアなのに、岡田山にしか痕跡がないのは寂しいですね」
「造っては壊しているからだよ」
「キタラの前が北海道大博覧会の『子供の国』でしょう。 その前が国産振興博覧会で造った初代『子供の国』です。 
 そして、その前が岡田花園ですからね」

「釣堀や相撲の土俵もあったらしいよ」
「池の西端の突出部分や太鼓橋の痕跡が何処かに残っていると思います」
「太鼓橋の代わりの橋だってあるはずだ」
「池だって何処かに痕跡があると思います」

「当時の木だってあるだろう」
「石も土もありますよ」
「水も空気もあるよな」
「太陽も月もね」
「こりゃ〜豪勢、沢山あるじゃないか」
「星の数ほどねっ!」

タグ:天文台
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明治時代の中島競馬場

札幌の歴史は中島公園の変遷をたどれば分かる。こう考えて歴史の勉強を始めてみたが早くも躓いた。
皆様に読んでもらうことは諦めて更新しながら勉強を続けたいと、今では思っている。
ともかく続けることにした。

初めてのスポーツ施設は中島競馬場(20年存続)


中島公園内の園路でここだけが直線。 白鶴橋こそ中島競馬場の名残。

中島公園の資産と活用を考えるシンポジウムは笠先生の「中島公園が有する歴史的・文化的資産」の講演から始まった。印象に残ったのは中島競馬場の話。「中島公園に競馬場があったのか」という驚きがあるからだ。


中島競馬場(1887年〜1907年)   札幌市文化資料室所蔵

「当時道庁の北にあった競馬場を中島に移設致したのもダンの手によるものです」と笠先生。 
ダンとはエドウィン・ダン、開拓使に雇用され、北海道における畜産業の発展に大きく貢献した明治期のお雇い外国人。

「当時の札幌区が、東京市の造園技術長であった長岡安平に円山と中島の造園計画を、
大通逍遥地には植栽設計を依頼して3つ共図面を描いております。
その時の現況図というものが残っております。
これを見るとまだ競馬場があり、馬場が鴨々川を2回渡っておりますので、
これが現在の白鶴橋と南14条橋になるのではと推測しています」
(『ランドスケープシンポジウム2011報告書 2.第1部』より)

さっぽろ文庫『中島公園』に載っている1892年ころの中島遊園地(現中島公園)のイラストには競馬場がある。 
それを参考に現在の中島公園に重ねて描いてみたのが下のマップである。

「南14条橋の位置が今と違うのではないか」
「当時は道幅が狭く、きちんと整備され道路ではなかったのです」
「今の行啓通の南に馬場があったようだね」
「橋の位置を思いっきり下げてみました。南へですね」

明治時代の馬場を今の中島公園で一回り

当時の馬になったつもりで、地図上の約1kmを歩いてみることにした。
中島体育センターと藻岩山が見える位置から弥彦神社へ、右折して南14条橋、
ぐるっと回って白鶴橋、自由広場の西側園路、芝生の広場をぐるっと回って文学館、
そしてスタート地点に帰り一周である。


現在の中島体育センター辺りを中心とした右回りコースと推定。

文献によると、札幌の競馬場馬場は右回り、左回り、右回りと変化しているが、
中島競馬場の馬場は右回りと書かれている。 


弥彦神社辺りで右に回る。
競馬場は1907年廃止され、その後1912年に弥彦神社が建立された。


右折後、南向きコースで橋を渡る。 画像は現在の南14条橋。

「直進して回る所で鴨々川にかかるので橋を架けました」
「一見して橋の向きが違うよ」
「明治時代の話です。道幅は狭いし、今の行啓通とは全く違います」
「なるほど、荷馬車が通れれば充分だからな」
「はっきりしていることは、馬場には橋が2ヶ所あったことです」


西澤果樹園(現在は護国神社がある)辺りを右回りして直線コースへ。

この辺までが馬場。ここで反転し直線コースに入る。


護国神社を出た位置、行啓通をわたり直線コースでキタラ方面へ。

中島遊園地に競馬場があったのは1907年まで、100年以上前の話。
交通の主役は馬の時代。道路と橋は今とは全く違うし、競馬の役割も違う。
ここからは直線。馬が思いっきりスピードを上げて走れるコース。


直線コースで白鶴橋を渡り、更に直進する。 現在のキタラは左側

「護国神社を出てから突き当たるまで300mくらいあります」
「それで?」
「122年前の馬場の直線コースが、ここに残っているのです」
「なるほど」
「ここに『中島競馬場跡』と記念碑を立てて下さい」
「ものを頼むなら、先ず役職と略歴を言え」
「無職、中島公園近所の住民です。11年住んでますよ」
「よ〜く分った。前向きに検討しよう。前向きにな、意味わかるだろう?」


馬場は右に回り芝生の広場へ。 左は札幌コンサートホール・キタラ。


ここで右に大きく回り、文学館方面にに向う。

1918年、開道50年北海道博覧会が開かれたとき、園芸館、水産館、林業及鉱業館、
その他各地の展示施設などが所狭しと建った場所。
1958年には北海道大博覧会が開催され、その跡地に百花園が誕生した。 
今は撤去されて緑のオープンスペースになっている。


文学館辺りから直線コースに入り、これが最終コース。


弥彦神社方面への直線コース。昔野球場やスポーツセンタがあった広場。


中島体育センターを中心に右回りのコースは、これで一周。

1987年 物産陳列場の裏手に馬場が造成された


1906年、北海道物産陳列場の増改築完成。  札幌市文化資料室所蔵

中島公園は遊園地として発足当時から博覧会とともに歩んできた。
最初に開かれたのが「北海道物産共進会」。1987に開催された。
競馬場の北側に永久館として建てられたのが、「北海道物産陳列場」である。


一生懸命書いていますが素人です。

競馬のことも明治時代の中島公園のことも、よく知りません。 
一生懸命調べて書きましたが、間違いも説明不足もあると思います。
これから、勉強するつもりです。 ご指導のほどよろしくお願い致します。


博覧会の絵葉書 札幌市文化資料室所蔵

中島公園のウェブサイト「中島パフェ」を運営して9年になりますが、
ようやく、この公園の魅力が、その歴史にあることに気付きました。

中島公園の魅力を紹介するには、その歴史は欠かすことのできないものと考えるようになったのです。 
しかし、居住経験も11年と短いし充分な知識もありません。

知識・経験が充足するのを待っていては、いつサイトに掲載できるかメドが立ちません。 
と言うことで見切り発車することにしました。つまり、勉強しながらサイトを更新することにしたのです。

中島公園の歴史は、札幌の歴史そのものと言われています。
この公園には多くの歴史的資産が埋もれているのです。

歴史的資産を一つひとつ掘り起こし、中島公園の魅力として伝えたいと思っています。

事実を伝えると言うよりも、問題提起のつもりで書いています。 
なにぶん知識も経験も不十分です。皆様のご指摘、ご意見をお待ちしています。

ご 注 意

出来るだけ調べて書いていますが、推測も含まれています。「 」内の会話体は自由に書いています。
否定している自分と、肯定している自分との、一人二役の会話です。 
疑問点も感じたまま書いています。

経験はないので全ては伝聞です。 
正確には「こう書いてある」「この様だ」となることも断定している場合もあります。

人様の話でも、まるで自分が知っているような顔をして、一人称で書くこともあります。 
その方が、読み易いと思ったときは、そうしています。人様の話を横取りしているようで申し訳ありません。

競馬場おもいつくままエピソード

札幌競馬のルーツ

札幌競馬は1872年琴似街道の路上で行われたのが始まり。

その後1877年には現北大キャンパス内の位置に楕円形の半マイル馬場を造成、春秋2回のレースが開催された。

中島競馬場開始1

中島公園遊園地設営の機会に物産陳列場の裏手に競馬場を建設した。

競馬場は南方と西方において鴨々川を渡るようにつくられ、その距離は550間
(約1000m)の馬場になった。

当時5ハロンを築造、馬見所も建設した。
中島競馬場完成により、山鼻屯田兵の競馬熱は一層高まった。

8月2,3の両日屯田兵招魂祭偕楽園内で行われた際、札幌競馬は中島遊園地で行われ人寄せに役立った。
山崎長吉『中島公園百年』

中島競馬場開始2

競馬場の開設は明治20年(1887年)にさかのぼるが、それ以前開拓史時代に路上競馬が行われ大通で競馬をしたり、偕楽園近くに競馬場が設けられたこともあった。 

しかし、馬場の広さと人寄せを考えると中島公園が最適として、馬場造成にに踏み切った馬場は南側の一部が鴨々川にかかることから架橋もした。
さっぽろ文庫84『中島公園』

馬場と行啓通

馬は行啓通を2回突っ切って走る。 行啓通の正式名は南14条中央線で幌平橋の手前から西20丁目線まで。

1881年明治天皇、1911年当時皇太子であった大正天皇が行啓された。行啓とは簡単に言うと皇族の外出の敬称である。

中島競馬場は20年間存続

1887年、競馬場は中島遊園地(現中島公園)に移転、遊園地南側に鴨々川を跨ぐ形に馬場が設置された。

今の中島公園で言えば白鶴橋と南14条橋を渡る形で馬場が設定されている。 

中島競馬場は1907年にに現在地(桑園)に移転した。中島公園には20年存続した。

競馬と屯田兵

中島公園に競馬場が開設され、盛んに競馬が行われており、その名馬、騎手の殆どは山鼻兵村出身だったという。

タグ:競馬場
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藻岩山への眺望を活かす

藻岩山への眺望を活かし「池泉回遊式」の庭として設計

中島公園は「お宝」がいっぱい。 そう思って園内を掘り起こすことばかり考えていたら大切なことを忘れていた。
それは藻岩山の景観。これなくしては中島公園を語れない。


中島公園菖蒲池と藻岩山。 札幌パークホテル11階からの眺望。

「中島公園は、1907(明治40)年に長岡安平が中島公園設計方針を提出。
長岡は,清流と藻岩山とその奥に連なる山々の眺めが素晴らしい景勝地が市街地の近くにあることを重要とみなし、
中島公園を池の水景や藻岩山への眺望を活かし,自然の風致を織り込んだ『池泉回遊式』の庭として設計した」
(「ランドスケープシンポジウム2011報告書)

中島公園に初めて来たとき、公園というよりも庭園のような印象があった。
「池泉回遊式」の庭として設計されたと聞いて、なるほどと思い納得した。


1918年開道50年記念博覧会当時の中島公園。 札幌市公文書館所蔵

「回遊式の庭ってなんだ?」
「池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)と言うのです」
「意味を聞いているんだよ」
「室町時代における禅宗寺院や江戸時代においては大名により多く造営された形式で……」
「簡単に言うと?」
「大きな池を中心にして周りに園路を巡らし、池の中には中島を設け橋、名石などで各地の景勝などを再現するのです」
「築山もあったよな」


中島公園日本庭園。木々の陰に国指定重要文化財「八窓庵」。

中島公園は菖蒲池の水景や藻岩山への眺望を活かして造られた。
自然の風致を織り込み「池泉回遊式庭園」として設計れたと言われている。
時の造園技術の第一人者、日本人初の公園デザイナー長岡安平の設計により造園されたものである。

「菖蒲池と鴨々川があり藻岩山の景観があっての中島公園なのです」
「そうかい」
「藻岩山が見えなければ中島公園とは言えません」
「そんなこと誰が決めた」
「藻岩山への眺望を活かして造られたのですから、設計者の意思です」

山が一番美しく見えるのは仰角8度。藻岩山に対する中島公園は、まさにこの位置にある。
菖蒲池北側から池越しに見る藻岩山は絶景である。

残念なことに、十数年前から藻岩山の眺望を隠すように高層ビルが建ち始めている。
今のところ、かろうじて山の形が見える。

「この11年間、高層ビルの建設はありません。中島公園を愛する気持ちが新規建設を抑えているのでしょうか」
「景気が悪いからじゃないか」

何の対策もしなければ、遅かれ早かれ中島公園から藻岩山が見えなくなる時代が来るだろう。
池と川の現状を守ることはたやすいが、藻岩山の景観を守ることは難しい。高さ制限などの規制を伴うからだ。


ビルに隠れた藻岩山。 立ち位置によって隠れ方は異なる。

もし藻岩山の眺望を失えば、造園設計の理念が崩れてしまう。その場合、中島公園の性格もかわるだろう。
気が付いたら藻岩山が見えなくなっていた、と言うことでは困る。当局はどう考えているのだろうか?

30分で140年をさかのぼる小さくて遠い旅

札幌は、190万都市でありながら自然環境にも恵まれ解放的なイメージがある。
モダンな札幌駅前・大通地区から、レトロな狸小路・薄野、
そして藻岩山の観える中島公園までの直線道路は「駅前通」と呼ばれている。


発展著しいJR札幌駅ビル周辺。


すすきのは歓楽街として知られているが、もう一つの顔は寺町である。

薄野の南には川端の柳が(いにしえ)の雰囲気を残す鴨々川が流れている。 

この辺りがお寺の多い落ち着いた感じの街であることは、余り知られていない。

小説『すすきの六条寺町通り』の舞台にもなっている「寺町すすきの」は、
モダンな札幌駅前とは対照的なレトロな街である。

界隈には新善光寺、中央寺、新栄寺、玉宝禅寺、永昭寺、
少し離れて東本願寺がある。そして、中島公園に隣接して、
水天宮、弥彦神社、札幌護国神社、多賀神社などが建っている。

モダンな駅前に対してレトロなすすきの・中島公園地区は、
札幌のもう一つの顔としたい。190万都市の顔は一つではいけない。


南7条3丁目の成田山札幌別院新栄寺。

札幌駅前から真っ直ぐ歩るこう! 新しい街より古い街に向けて歩いてみよう。
それは30分の小さな旅だが、札幌の歴史を遡る(さかのぼる)遠い道のりでもある。
雨が降れば地下通路や地下街に、疲れたら地下鉄にも乗れる。
体調に合わせて歩けるし、直線なので迷うこともない。


厳しい冬にはもってこいの地下歩行空間。 北国では特に便利。

札幌駅から真っ直ぐ歩く駅前通り散歩。横道にそれて歩いても簡単に戻れる。
とても手軽な散歩道である。これを札幌市内観光の目玉にしてほしい。
キャッチコピーは「30分で140年を遡る小さくて遠い旅」。
もちろん駅前散歩の終点は藻岩山であり中島公園である。


4月から大改修、築132年の豊平館。工事完了は4年後の2016年3月。

中島公園の東側には札幌の母なる川と呼ばれる豊平川が流れている。
そこに架かる幌平橋に「ポートランド広場」と名付けられた憩いの場がある。

水面からの高さが20mにもなる展望アー チに上ると滔々と流れる豊平川越しに藻岩山が見える。
これはかなりの絶景である。振り返れば市街地が遠望できる。

中島公園と鴨々川、藻岩山と豊平川、そして市街地。それらを一望できる場所は、この展望アーチ以外にない。
観光資源として活用すべきと思う。

posted by nakapa at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 資産活用