2014年09月06日

幻のオリンピックU

幻のオリンピックU 〜札幌決定に欣喜雀躍〜

幻のオリンピックTの続き。
前編はこちら → 幻のオリンピックT 謎の五輪ポスター


札幌観光協会1936年12月15日発行のパンフより、札幌市公文書館所蔵

私が「謎のオリンピックポスター」と思っていた画像は、札幌観光協会が発行したパンフレットの表紙を飾るイラストだった。札幌市公文書館で日本語版と外国語版の二種類ある手帳サイズのパンフを手にして見たのだ。

1936年12月15日の発行だから札幌がオリンピック開催地に決まる半年前のものである。それで「競技開催候補地」となっていたのだろう。

「なんだポスターじゃあないのか」
「最初に見たのがパソコン上の画像ですから勘違いしました」
「勘違い?」
「公文書館で調べて小さな冊子であることが分ったのです」
「パソコンで見るなら実サイズを確認しなきゃダメだよ」

オリンピック冬季大会札幌に決定!


北海タイムス1937年6月1日切抜き 札幌市公文書館所蔵

けっきょく満場一致で札幌開催が決められた。新聞の見出しに「待望の札幌決定に全道興奮と歓喜の坩堝(るつぼ)」と書いてある。やれ提灯行列、旗行列とエライ騒ぎだ。 

当時の札幌市民がいかに喜んだか想像に難くない。そして中島公園はスケート会場と決まった。スピード、ホッケー、フィギュアの会場である。

「興奮のるつぼと化す」など熱気に溢れた状態を表す「るつぼ」は、坩堝の中が灼熱の状態にあることから比喩的に用いられるようになった。(語源由来辞典)

「開催となると役員とか大変だよ。審判の経験者はどのくらいいるの?」
「苫小牧にスピードとホッケーの経験者が2,3人居たはずですが」
「2,3人! フィギュアはどうなの?」

「K君が経験者です。それから東京や関西にもいると思いますよ」
「K君一人! 東京や関西からどうやって来るのさ」
汽車と連絡船、更に汽車と乗り継いで来る時代である。
「まあ、なんとかなるでしょ。大会まで3年ありますから」

「外国の一流選手が俄か仕込みの日本人審判の判定に納得する?」
「開催まで3年あるでしょ。それまでに何とかなりますよ」
「フィギュアだけでなくスピードの審判も心配だな〜」
「国際オリンピック委員会で札幌開催を決めたのだから大丈夫!」
「500mの計時にマチマチな時間のストップ・ウォッチでいいの?」

「とにかく決まった以上、一から万事この3年間に養成しなければならないの。英独仏語に堪能な人を見つけて、完全な氷面と完全な役員を揃えなきゃならないの。あーだーこーだー言ってる暇ないよ!」

以上は、冬季オリンピック札幌大会開催決定当時の新聞を読んで要約した私の想像である。公文書館に当時の「北海タイムス」等のスクラップブックがあるので参照させてもらった。

冬季大会実現に歓喜爆発! 提灯行列旗行列


北海タイムス1937年6月14日切抜き。 札幌市公文書館所蔵

アジアで初めて、そして世界で5番目に開く冬季オリンピック札幌大会。そのメイン会場の一つが中島公園である。大勢の観客が見ることができるスケート競技の全てが中島公園で行われるのだ。こんな素晴らしいことはない。

しかし何故か、このことを知っている人は少ない。2020年東京オリンピック決定後、幻のオリンピックとして戦争のため返上した1940年東京大会が話題に上った。それに連れて同年開催の札幌冬季大会も少しだけ知られることになった。

オリンピック開催は歴史的にみると平和の証である。それにしても中島公園が世界のひのき舞台になるという事実があったのに公園内には、それを示す片鱗もない。なぜだろう?

「アンタがうるさいもんだからグーグルで『札幌オリンピック スケート会場』で検索したけど何もないぞ。 真駒内と美香保ばかりだ」
「検索したら5番目にありましたよ」
「ホントか?」

「私の書いた『幻のオリンピックU』でした。このページですね」
「それじゃ何もないのと同じじゃないか。骨折り損だったな」
「そんなこと言わないで前向きに考えましょうよ」
「くたびれ儲け! くたびれ損から儲けに変えたよ。前向きだろう」
「ダジャレ止めましょ。 次は札幌市民歓喜爆発の話題です」


冬季オリンピック札幌開催決定を祝う札商生。 札幌市公文書館所蔵

当時の新聞報道によると、300万道民は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して札幌開催を祝ったと言う。昼夜にわたり祝歌を高らかに歌いながら旗行列、提灯行列をもってオリンピックの札幌開催を盛大に祝ったそうだ。

「男子は提灯行列、女子は旗行列。『世界の舞台札幌』を歌いながら行進するのです。 みんな手に手に提灯を持っていますね」
「これから五輪マークを先頭に担いで提灯行列に行くところだな」

「関係者だけで4000名、それに提灯行列の男子学生と旗行列の女学生ですから盛大なものです。文字通り欣喜雀躍ですよ」
1万数千人が札幌で3時間行進。(2014年9月3日北海道新聞)

「それにしても昔の人は教養ありますね。きんきじゃくやくですよ」
「なんだそりゃ?」
「雀が踊り歩くように小躍りして喜んだということです」

「まさに、歓喜爆発だな」
「景気づけに開催決定祝歌『世界の舞台札幌』を歌いましょう!
 オリンピックの聖劇の〜♪  序曲の鐘は今ぞ鳴る〜♪」

第4回冬季オリンピック大会出場7選手の壮行撮影?


第4回冬季オリンピック大会(ドイツ)出場7選手 札幌市公文書館所蔵

推測だが、これからオリンピックに出場する選手の「壮行撮影」だろうか。選手全員がスタートの姿勢をとっている。「行くぞ!」という意気込みが表れている。この写真からは、やる気満々の雰囲気が伝わって来る。

写真は1935年2月11日、中島公園で開かれた氷上カーニバルで撮られたもの。スピードスケート選手全員が並んでいる。後ろで立っているのは氷上カーニバル参加者。選手に期待し励ましている様子が伝わってくる。

戦争の為中止 〜オリンピックは幻となる〜


北海タイムス1937年9月8日切抜き。 札幌市公文書館所蔵

右往左往しながらもオリンピック準備は着々と進められたが1938年7月18日に日本政府は中止を決定した。残念なことだが戦争とオリンピックは両立しない。日中戦争が激化した為の辞退である。

この時は日本が返上しても代替地が指名されたが、第二次世界大戦の勃発で代替地開催も中止となる。オリンピック返上は来るべき危機の序章に過ぎない。その後の戦争で膨大な命と財産を奪い奪われることになった。

結局第5回冬季オリンピックは第二次世界大戦の終結後、1948年にスイスのサンモリッツで開催された。従って1937年〜1947年の間、オリンピックは開催されなかった。この間に戦争により失われた人命は約5千万人以上と言われているが、余りにも膨大で正確には分からないそうだ。

もし日本が…、そして世界がオリンピック開催に全力を尽くしていたら、これほどの犠牲者は出なかったと思う。ボタン一つの掛け違いが戦争へと拡大する可能性がある。幻で終わった東京(夏季)・札幌(冬季)大会もボタンの一つかも知れない。

札幌での冬季オリンピック開催は、中止から32年後の1972年に実現した。このころになると冬季オリンピックの規模も大きくなり、手狭な中島公園の出番はなくなってしまった。もし2026年の冬季大会が札幌に決まったら、一競技くらいは中島公園で開催してほしい。歴史的にも意義があると思う。

実現したオリンピックと幻のオリンピック

「幻のオリンピックは何もなかったことと同じでしょうか?」
「無い。現代はデジタル時代。全ては有るか無いかで割り切れるんだよ」
「歴史は寄せては返す波のようにアナログですね」
「それがどうした」

「日帰りの観光ツアーはどうかと思いまして」
「話を飛ばすな」
「大倉山のウインタースポーツミュージアムを中心に手稲山、真駒内等の過去のオリンピック施設をまわり、それに中島公園を加えるのです」
「幻の中島公園を加えてどうする」

「水と緑だけでなく歴史的施設の目玉が必要なのです」
「豊平館と八窓庵があるじゃないか」
「江戸の八窓庵、明治の豊平館。昭和を象徴する施設も欲しいです」
「それで幻のオリンピックの一競技施設をよみがえらせたい…」
「三つの時代のものが結びつくと歴史の流れになると思うのです」
「誘致できなければ絵に描いた餅だな」
「中島公園は知られていない歴史の宝庫。他のモチもありますよ」

第5回冬季オリンピック札幌大会スケート競技場予定図


冬季オリンピック札幌大会スケート競技場予定図 札幌市公文書館所蔵

この中で現在もほぼ同じ場所にあるのは(3)の菖蒲池。それ参考に現在の場所を考えてみた。

競技場予定図の説明 ( )内は現在地の参考

1.スピード等、屋外リンク予定(文学館、体育センター近くの広場)
2.フィギュア等、屋内リンク予定(札幌コンサートホール付近)
3.中島ポンド屋外練習リンク(菖蒲池)
4.豊平川
5.女学校(札幌パークホテル)
6.こども用プレイグラウンド(九条広場)
7.弥彦(伊夜日子)神社
8.札幌招魂社(札幌護国神社)
9.このマップにMuseumと書いてある?(ボート乗場近く)


幻のオリンピックU 以下の画像は札幌市公文書館所蔵

1937年に5回目の冬季オリンピック大会が札幌で開催されることが決まった。しかも、スケート会場は中島公園。IOC(国際オリンピック委員会)総会で札幌開催を決定した。

 
1940年札幌オリンピック メダル図案
1940 SAPPORO V.OLYMPIC WINTER
GAMES と書いてある。


幻のオリンピックポスター
5th OLIMPIC WINTER GAMES SAPPRO
1940 5-14 FEB. と書いてある。
OLYMPICとOLIMPIC、YとIの違いは言語の相違だろうか?


北海タイムス 1937年6月11日
冬季大会待望実現、道民の歓喜爆発

最高級の喜びを表す見出しが踊る。参加人員4000名の提灯行列と旗行列。「世界の舞台札幌」を歌いながら、全市を火の行列で練り歩くと記録されている。

当時の札幌市民の感動が、いかほどのものか、紙面から伝わって来る。それにしても、現在この事実を知っている人は少ない。中島公園が世界のひのき舞台になろうとしたのに、何故だろう?ぜひ記憶してほしいと思う。


北海タイムス1937年6月11日
札幌冬季大会の興奮冷めやらぬ頃なので、こんな見出しもある。しかし当時の技術ではテレビ中継は無理ではないか?

「札幌東京間はもちろん主要各国とのテレビジョンの実現を図るべく直ちにこれが研究に着手」と新聞に書いてある。オリンピック開催までの3年間で研究の成果は?

「1936年のベルリンオリンピックにおいて、当時まだ多くの国では開発段階であったテレビジョンによる中継が試験的に行われた。

試験的とは言え、複数のカメラを使い、会場と会場外を結ぶ本格的なものであった」(ウィキペディアより抜粋)


北海タイムス1937年6月14日
「冬季オリンピック大会が札幌開催に決定したので、300万道民は欣喜雀躍」 上のような「祝歌」を、提灯行列や旗行列で歌った。つまり、雀が踊り歩くように小躍りして喜んだのである。 


北海タイムス1937年10月23日
屋外スケート場は野球グラウンド。現在の道立文学館、中島体育センターの間に広がる芝生の広場。フィギュアの室内リンクも中島公園内に設けられる計画。


北海タイムス1937年12月3日
第5回冬季オリンピック札幌大会屋外スケート場新設工事設計図。


北海タイムス1938年7月18日

1938年7月18日、政府の開催返上閣議決定を受けて第5回冬季オリンピック大会実行委員会は中止を正式に決定した。

日中戦争激化のため開催不可能となったのである。1年で水泡と化したオリンピックの夢。そして中島公園の夢。

その後「国際オリンピック委員会は札幌に代えてサンモリッツ(スイス)、さらにはガルミッシュ・パルテンキルヒェン(ドイツ)を指名したが、第二次世界大戦の勃発により、こちらも中止のやむなきに至っている。

第5回冬季オリンピックは第二次世界大戦の終結後、1948年にスイスのサンモリッツで開催された。札幌での開催は中止から32年後の1972年に実現した。
(ウィキベディアより抜粋)

以上の画像は札幌市公文書館所蔵

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2014年05月24日

中島公園三十三選

中島公園三十三選の思い出「中島パフェ」

中島公園は水と緑の公園。歴史の変遷とともに姿や役割を変えてきた。その資産を掘り起こし魅力を伝える。
中島公園近所の住民の目線で撮った「三十三選」の写真と、それにまつわる思い出を記す。 2014年5月24日更新


茶色表記は公園緑化協会中島公園管理事務所作成の「中島公園三十三選」リーフレットからの引用。

郷土史の専門家ではないのだが、中島公園は知れば知るほど知りたくなる不思議な公園と思い興味が尽きない。

1.イチョウ並木  植物

札幌駅前通に続く、公園のメイン入口に伸びるイチョウ並木。1918(T7)年に行われた開道50年記念博覧会のあと、に植栽されたものであるといわれている。地下鉄建設の際に一度植え替えられたが、復植されて美しい並木景観を作り出している。

1918年に開催された開道50年記念北海道博覧会の第1会場は中島公園、馬蹄形全景の真ん中に博覧会のシンボル北極塔が立ち、その後ろが水産館、右が京都府、左が園芸館。入場者数142万人と空前の規模。 札幌市公文書館所蔵。


秋の黄葉は美しいが、印象的だったのは冬のロードヒーティング園路。一面の銀世界の中で園路だけは雪も無くコツコツと靴音をたてて歩ける快感は忘れられない。経費の関係と思うが2004年以降は使われていない。

2.木下弥八郎顕彰碑 きのしたやはちろう 彫刻・碑像・モニュメント


木下弥八郎は、公園内に彫像のある木下成太郎の父で豊岡藩(現、兵庫県)の家老であった。後に家老を辞し、勤皇の志士と交わって統幕に貢献したが、中央政治には関わらず、北海道に渡って開拓に従事している。漢文で書かれた碑文は、公爵西園寺公望の題額、時の総理大臣原敬の撰文からなる。

幕末に活躍した大人物と聞いているが顕彰碑は道路(交差点)の真ん中にあり、騒音と排気ガスの中。誰もが何となく通り過ぎ、とどまる人は居ない。北側にアートホテルズ札幌、南西側に札幌パークホテルがある。街中に有りながら世間一般にはあまり知られていないようだ。調べなければならないと考えている。

3.のびゆく子等  彫刻・碑像・モニュメント


新一年生のお母さんの集いを記念して建立されたもの。作者の小野健壽氏は、羊が丘小学校の教員をされた方で、「友愛の心で命の喜びを表現」したものである。1976(S51)年11月20日に設置されている。

札幌彫刻美術館友の会では中島公園の彫刻清掃もボランティアとして行っている。2009年9月の第4回清掃には、小野先生も参加され自らの作品について解説をしてくれた。白銅で作られた彫刻は道内ではもちろん、全国的にも貴重な存在と話された。

なお、この画像は2003年11月に撮った台風第18号以前の中島公園である。木々に溢れて秋の紅葉も綺麗だった。美しい風景をバックにして彫刻も映えている。 因みに彫刻を覆うようにして立っているヤナギは台風第18号の為に倒壊した。

4.札幌パークホテルの庭園  造園的資産


建設当初はホテル三愛、後に札幌パークホテルになる。この庭は北大の明道教授を代表とするデザインチームによって計画され、藻岩山を借景に、菖蒲池の水が庭園に流れ落ちるかのように配置されており、公園と一体感を醸し出している。

笠康三郎氏のブログで滝の通水試験(1966年)の様子を撮った画像を見たことがある。藻岩山、菖蒲池、滝が一体になっていた。まるで菖蒲池の水が滝となって庭園に落ちてくるように見えたが、時代とともに木々も育ち菖蒲池は見えなくなった。

5.ハウチワカエデ’舞孔雀 まいくじゃく’  植物


かって豊水通向こう側にあった料亭「雅叙園」の玄関脇にあった名木。道路の拡幅に合わせて廃業したため、庭木を公園に寄贈した名残の木である。庭木のうち、街路樹ますの位置にあったヨーロッパクロマツは現在も残されている。

中島公園の東側の林にあるが、木々の間にあって気付き難い。毎年恒例の「中島公園見どころ探訪ツアー」で説明を受けて初めて、そのような謂れのある名木と知る。日本庭園の主役にもなれる由緒ある樹木と聞いているが、周囲の木々が大きくなり、今では日当たりも悪くなっている。その価値を維持したまま次世代に渡してほしい樹木の一つである。

6.木下成太郎像 きのしたしげたろうぞう  彫刻・碑像・モニュメント


木下成太郎は但馬の国豊岡の出身で父弥八郎と来道して開拓にあたり、のちに衆議院議員として国政でも活躍している。大東文化大学や武蔵野美術大学などを創設した教育者としても知られ、1941(S16)年に建てられた彫像は、朝倉文夫の作で、供出も免れて現在に至っている。

東洋のロダンといわれた朝倉文夫の作だが、かなり傷んでいた。基壇に隙間が出来、そこから雑草が伸びていたが、札幌彫刻美術館友の会主催でボランティアによる彫刻清掃と草刈を実施。その後札幌市がこのブロンズ像の基壇等を補修、整備した。

2010年10月17日にはこの像をテーマとした「シンポジュウム2010北の彫刻」が、札幌パークホテル、パークプラザで開催された。基調講演は武蔵野美術大学造形学部彫刻学科の黒川弘毅教授。同教授によるこの像の調査も実施された。

7-1.山内壮夫彫刻群「猫とハーモニカ」  彫刻・碑像・モニュメント

北海道大博覧会のあと、1959(S34)年から1965(S40)年にかけて、公園が整備されて百花園や噴水が設置された時に札幌出身の山内壮夫による森の歌が噴水の中央に、百花園のバラ園内に、同じく山内壮夫作の笛を吹く少女、母と子の像、猫とハーモニカ、鶴の舞が設置されている。4体が現在の「香の広場」に残され、森の歌はブロンズに再鋳造されて九条広場に設置。


昔の百花園、「母と子の像」の正面に「森の歌」、その先に藻岩山。左に「鶴の舞」、右に「猫とハーモニカ」、そして後ろには「笛を吹く少女」。この像だけが現在とほぼ同位置にあり、「森の歌は」九条広場へ。 画像は札幌市公文書館所蔵。
昔の百花園や噴水の詳細についてはこちらをクリック! → 中島公園の歴史「思い出の山内壮夫ワールド」


現存の4体のコンクリート彫刻は設置して50年以上たち劣化が目立つようになった。初めての野外彫刻劣化防止作業は、「猫とハーモニカ」で試行することにした。高さ80cmと低く作業がしやすいことが、その理由。 成功を確認した上で次の像を手がける予定。札幌彫刻美術館友の会長、会員及びその家族で実施した。 


昔の「猫とハーモニカ」には耳がある。今はないが何時壊されたのだろうか。 札幌市公文書館所蔵

7-2.山内壮夫彫刻群「母と子の像」  彫刻・碑像・モニュメント


2回目の彫刻劣化防止作業は、札幌彫刻美術館友の会の他、近隣のホテルの人も参加してくれた。 1年に1回、ボランティアでこの作業を実施しているが、次第に人の輪が広がってきた。 

7-3.山内壮夫彫刻群「笛を吹く少女」  彫刻・碑像・モニュメント


2012年6月30日、小学生を対象に「笛を吹く少女とあそぼう 」との呼びかけで彫刻クイズラリーが開催された。主催は札幌彫刻美術館友の会。「笛を吹く少女」前でリコーダーコンサート。演奏は「カサリコ」さん。詳細→ 中島公園彫刻クイズラリー2

「笛を吹く少女」は藻岩山の方を向いて立っている。札幌コンサートホール・キタラがちらりと見えるがポプラの大木はない。危険木と診断され、2006年8月に伐採された。一本の木の伐採としては記録に残すべき大作業だった。

7-4.山内壮夫彫刻群「鶴の舞」  彫刻・碑像・モニュメント


3回目は「笛を吹く少女」で4回目の「鶴の舞」で一巡したが、最終回は雨にたたられ8月9月と2ヶ月にわたる作業となった。たまたま彫刻巡りをしている小学生との交流もあり、楽しい1面もあった。 


1972年の空撮。画像の右半分が大きく変わっている。上から中島球場、百花園と噴水、子供の国。現在は球場辺りが文学館と緑のオープンスペース、百花園辺りは「香の広場」、子供の国の跡地には札幌コンサートホール・キタラが建った。

8.北海道立文学館  建造物・施設


北海道出身の文学者や、北海道にゆかりの深い文学者に関する文学資料を、収集保存すると共に、文学資料の展示、文学散歩、文芸講座、講演会、刊行物の編集、刊行等、種々の事業を展開するために開設されており、1995(H7)年に北海道が設置したものである。

文学館周辺は芝生の広場になっているが、ここにかっては中島球場があった。 1980年7月 9日〜14日、社会人野球大会最終試合以後、中島球場は取壊し姿を消した。「札幌中島球場、それは北海道の野球の歴史そのものであり、北海道の野球界にとって永遠に忘れられない宝である(さっぽろ文庫84の6野球場より抜粋)」。プロ野球が開催されたこともある。

9.自由広場  建造物・施設


公園内に設置されている広場で、まさに自由な使い方ができるため、春の園芸市や札幌祭りの出し物、メーデーなど各種の集会、さっぽろ元気まつり、フリーマーケットなど、年間を通じて様々な催し物が行われている。

中島公園リーフレットによると、この広場の利用料金は1日、9200円、半日4600円。利用の仕方に制限があるそうだが、思ったより安い。交通は便利だし屋外のイベントにはもってこいと思うのだが空いている日は多い。

毎年「さっぽろ元気まつり」が盛大に開かれていた。8月初旬(土日)の開催なので行ってみたらやってなかった。2013年のことである。やりますよという案内は見つけ易いが、止めましたとの案内は見つけ難い。この祭りの主催者に問い合わせたところ「今後、中島公園で開催する予定はない」とのことだった。

10.ケヤキ(公園一の大木)  植物


元の偕楽園の一部である伊藤邸周辺や、偕楽園にあった開拓記念碑を移設した大通公園6丁目などにケヤキの大木が見られ、この木も伊藤組創設者の伊藤亀太郎氏が、弥彦神社創建に際して、郷里の新潟から持ち込んだ苗を植えたものであるという。

この場所には忘れられない思い出がある。2004年12月某テレビ局の年末特番「台風18号の爪跡」で中島公園が大々的に報道されることになった。取材対象は幌平橋駅前の倒壊したポプラ並木。近くにはテレビ中継車を駐車させる場所がないので、広いこの場所が駐車場所として選ばれた。

ところが現場と離れすぎていてケーブルが届かない。結局この企画は中止になってしまった。代わりにヘリコプターにより広範囲な空撮が行われた。実現はしなかったが、今までで一番大きな取材体制の報道に協力できて学ぶ点が多かった。「中島パフェ」を開設して1年半くらいの出来事だが、台風直後の写真を沢山載せたのが記者の目にとまったようだ。

11.風景の夢  彫刻・碑像・モニュメント


国際的金属造形作家として知られている、小田襄(おだじょう)の作品で、ステンレスを使った作品が多い。設置は2000(H13)年で当初は芝生内におかれていたが、のちに回りを整備して休憩設備が整備されている。

現在は、彫刻の周りも花壇等が整備されている。当初は美しかったが、花木は成長して伸びるので、手入れが大変と思う。画像は整備以前の「風景の夢」、すっきりした美しさがある。周りの風景を作品に取り込み、彫刻自身が風景に溶け込んでいる。個人的にはこのように芝生に立っている方が見栄えがすると感じている。


ちなみに現在は、この形。花が伸びてくると折角の彫刻が隠れてしまい小さく見える。 2012年7月25日撮影。

12.弥彦(伊夜日子)神社 いやひこ(いやひこ)じんじゃ  神社・仏閣


札幌は新潟の出身者が多く、新潟にある越後一宮の弥彦(伊夜日子いやひこ)神社の分霊を得て1912(M45)年1月に弥彦神社を創建した。弥彦神社には、天照大神の曾孫(ひまご)天香山命(あめのかぐやまのみこと)を祀っていたが、1986(S61)年には大宰府天満宮からの御分霊を得て増祀している。

1918(T7)年の弥彦神社。この年に開道50年大博覧会が開かれた。 札幌市公文書館所蔵

「札幌の縁結び神社といえば『弥彦神社』。由緒ある越後の国の神様が祀られており、年間で約40件の神前結婚式が行われる縁結び神社」とウェブサイト『パワースポットトを旅しよう』に書いてあった。2011年7月26日・27日には弥彦神社の例大祭があり露店、こども神輿、マジックショーなどが行われた。

13.鴨々川  自然資源


豊平川の分流の一つであった鴨々川は、京の鴨川を意識したものだとか、数条あるので鴨々川とした説や、アイヌがサケを獲るときに使う曲げわっぱであるという説などもあったが、最近アイヌ語の「土砂が上に被さって詰まったところ=カモカモ・カムカム」に由来する地名である、という説が発表されている。 画像は札幌市公文書館所蔵(1977年頃の鴨々川遊び場)。

鴨々川が遊ぶ子供達で溢れている時代があった。1975年に自然の川を利用して子供たちが遊べる場所として「鴨々川遊び場」がオープン。全長250メートル、水深20センチ、当時は都心部唯一の水遊びができる川として誕生。子供たちが楽しく遊べる工夫が随所に見られた。今は画像にあるターザンロープなど遊具はなくなり水深の浅い普通の川となった。

2002年頃と思うが滑り台は外され階段だけが残った。小さな展望台の感じ。 2012年7月7日撮影

14.札幌護国神社  神社・仏閣


屯田兵招魂碑は北の偕楽園にあったが、手狭になったため、1907(M40)年に中島に札幌招魂社を建立。昭和に入って現在地に拡張移設し、1939(S14)年に札幌護国神社と改称している。境内には、偕楽園にあった屯田兵招魂碑を初め、各種の慰霊碑が集まっている彰徳苑がある。

護国神社の一隅にある彰徳苑には戦没者慰霊碑、記念碑などが立っている。2011年6月23日、沖縄戦戦没者慰霊碑が、建立された。沖縄にある「平和の礎(いしじ)」のような刻銘板も完成。そこには10,800名にも及ぶ北海道出身戦没者の氏名が刻まれている。裏の碑文には日本人戦没者数226,000名、沖縄県を除く戦没者77,000名と書いてある。 引き算すれば、沖縄県犠牲者149,000名。この戦闘で沖縄の次に多くの犠牲者を出したのが北海道だった。因みに都府県平均1,471名。

15.行啓通 ぎょうけいどおり  歴史的資産


1911(M44)年に、皇太子(後の大正天皇)が公園内で児童の遊戯をご覧になり、その後現在の南14条通を西進して山鼻小公園にある開村記念碑や明治天皇が声をかけた「お声かかりの槲(かしわ)を見学し、再びこの道を戻られている。これに合わせて道路を整備したため、「行啓道路」と呼ばれていたが、後に行啓通となった。

このポプラ並木が大好きだったが、2004年9月8日の台風第18号で倒壊し、今は見る影も無い。中島公園周辺で台風の爪跡をハッキリと残しているのはここだけだ。ポプラは折れて長さはまちまちだったが切られて無くなった。2001年11月3日撮影


2004年9月8日の台風第18号でポプラ並木はほとんど折れてしまった。その後、根元から伐採。 2004年9月9日撮影。

16.エゾヤナギ(公園一の老木)  植物


中島公園の場所は、もともと豊平川の河川敷であり、ヤナギを中心とした水辺を好む木が生えていたと考えられる。中でもエゾヤナギは護国神社にかけて大木が数本あり、園内一の太い木が、南14条橋(画像の左側)のたもとに立っている。

葉が落ちると見るからに老木という感じ。公園一と知れば何とか長生きして欲しいと思う。見かけよりも丈夫なのかも知れない。台風にも耐えたし危険木と診断されてもいない。多くの木々が危険木と診断され伐採されているのに生き残っている。

17.白鶴橋 はくつるばし  歴史的資産


1887(M20)年に、エドウィン・ダンによって競馬場が設置された時、鴨々川を渡る形で馬場が設置されたため、ここに橋が架けられている。1907(M40)に競馬場が廃止されたが、大正天皇が皇太子時代の1911(M44)年に札幌に行幸された時に、この橋を渡って中島から山鼻に入られている。

2008年頃、鴨々川河川工事が終わったが、その影響か白鶴橋辺りで親子鴨があまり見られなくなった。この画像は2005年7月3日の撮影。親子の鴨(マガモ)が写っているのを選んで掲載した。冬になると菖蒲池が凍結し鴨は、この辺りにも沢山来ていたが河川工事後はだいぶ減った。このことだけでなく工事は自然にかなり影響を及ぼすものだと思った。


競馬場の馬場が白鶴橋にかかる。現在とほぼ同じ場所。菖蒲池は二つに分かれている。明治時代の中島遊園地。

中島遊園地馬場1887(明治20)年〜1907(明治40)年   札幌市公文書館所蔵

18.不老の松の碑  歴史的資産


鴨々川の対岸のこの場所には、かって料亭『鴨川』があった。この碑は皇紀二千六百年の1940(S15)年に建てられているが、このクロマツがちょうど70年前の1870(M3)年に、この地に入植した者によって植栽されたものであると書かれている。

2014年現在から逆算すると、このクロマツは144年前に植栽されたもの。そんなことが分かるのも碑があればこそである。中島公園は歴史ある公園だが、残念なことに存在を示す証拠の様なものが殆ど残されていない。

19.札幌コンサートホール・Kitara  建造物・施設


公園内の遊園地施設「子供の国」の跡地に、1997(H9)年北海道初の音楽専用ホールとして開館した施設である。特に音響効果がすばらしいとの評価が高く、世界各国の有名演奏家が来演する、音楽の殿堂となっている。 
2004年5月12日撮影

水と緑の背景は音楽の殿堂キタラ。私の大好きな風景だった。この写真は2004年5月12日に撮ったもの。4ヶ月後に襲った台風第18号で、この中の3本の大木が倒れた。右側の1本と左側の木々の内2本である。一番美しかった台風前の風景。

木々が倒れると景色が変わる。上の画像から1年後の札幌コンサートホール・キタラ。 2005年5月2日撮影

20.相響 そうきょう  彫刻・碑像・モニュメント


美唄出身で、国際的に活躍している彫刻家安田侃(かん)の作品。イタリヤのピエトラサンタから産出される白大理石から掘り出された彫刻で、1997(H9)年に、Kitaraの開設に合わせて設置されている。館内にあるものとセットになっており、三つで一つの作品である。

「冬になると札幌コンサートホール・キタラ広場前の安田侃「相響」にシートを被せるのはなぜですか?」とメールで質問したことがある。公式サイト『彫刻家 安田侃』より次のような趣旨の回答があった。

「冬期間の積雪により作品内部に浸水すると、その水分が冬期の冷え込みで凍結・膨張し、作品に亀裂を生じる恐れがあります。この理由で、作者安田侃が、キタラにお願いしてシートをかけてもらってます」

21.天文台(岡田山)  建造物・施設


2012年5月21日、天文台で日食観望会が開かれた。大部分が欠ける部分日食が札幌でも見えたのだ。金環日食でないのは少し残念な気がしたが、約600名が中島公園内の札幌市天文台に集まってきた。

こんなに沢山の人達が集まったのは初めてと思う。豊平川花火大会の日はこの斜面に花火を観る人たちが集まる。冬はソリやスキーをする子供たちで賑わう天文台斜面が、この朝は天文ファンでいっぱいになった。


絵はがき、(北海道)札幌中島岡田花園ノ景 THE OKADAKAEN GARDEN SPPORO  札幌市公文書館所蔵

Kitaraから豊平館、日本庭園の一帯は、明治時代に岡田花園があり、園亭を構えて園遊会場としての機能を持っていた。庭園の築山の名残が、現在天文台のある小山で、岡田山の名で親しまれている。天文台は北海道大博覧会のあと、1958(S33)年に建設されている。

22.シダレウンリュウヤナギ(枝垂雲龍柳)  植物


ウンリュウヤナギは枝がくねくねと斜上して特異な樹形になり、切り枝としても利用される。本種は、中国原産のペキンヤナギの変種であるが、公園内にはさらにこれが枝垂れるヤナギがあり、仮にシダレウンリュウヤナギと名付けている。

池を挟んで豊平館の向かいにある大きなヤナギが気になっていた。シダレヤナギの様ではあるが、ちょっと違う堂々とした大木である。公園管理事務所が主催する「中島公園見どころ探訪ツアー」に参加してシダレウンリュウヤナギであることを知った。

23.国指定重要文化財 豊平館 ほうへいかん  建造物・施設


1881(M14)年の天皇行幸に合わせ、我国初の洋造旅館(ホテル)として建てられた豊平館は、元大通西一丁目にあったが、テレビ塔の建設により、。1957(S33)年に現在地に移築された。国指定の重要文化財に指定されている。

豊平館の上空を鳩が飛んでいた。群れになって銀色に輝きながら旋回する姿は美しい。しかし、鳩はよく糞をして建物などを汚す問題もある。豊平館は明治13年に建てられ、あの有名な鹿鳴館より3年も古い。

1880(M13)年12月3日 落成式。 1881(M14)年8月30日-9月2日 明治天皇が宿泊した。
1933(S8)年11月3日 国の史跡に指定された。

1943(S18)年 旧陸軍北部軍の飛行第一師団司令部に使われた。 1945年(S20) 敗戦後、進駐軍が接収し、宿舎にした。 1946(S21)年 三越札幌支店が移転した。1947(S22)年豊平館が米軍より札幌市に返還された。

1948(S23)年2月 市による整備が終わり、札幌市中央公民館と改称。1949(S24)年9月 札幌市民会館に改称した。 1957(S32)年2月19日 中島公園へ移築に伴い大通の豊平館解体式。 1958(S33)年5月31日 中島公園への移築が完了。


移築6年後の豊平館。その後、前庭と池が整備され、背後に高層ビルが建つ。 この写真はASAから許可を得ています。


豊平館は保存修理のため、2012年4月1日から2016年3月31日の間休館し、2016年度リニューアルオープンする予定。改修は耐震補強、バリアフリー化、障害者トイレ、エレベーター設置等について行う。そして有料化が検討されている。

24.日本庭園  造園的資産


北海道に本格的な日本庭園をと1961(S36)年から二年をかけて造成。日本庭園の基本的形式である築山林泉回遊式庭園で、。道内各地の銘石、京都から取り寄せた12基の石灯籠、アカマツやクロマツなどの庭木など、みどころが多い。手水鉢(ちょうずばち)の水を、地中の瓶の中に落として水音を反響させる、水琴窟(すいきんくつ)も設けられている。

日本庭園の基本的形式『奥山に発した流れが瀬を走り、淵に寄り、平野を流れ、沼に休み、やがて大海に進むまでの自然風景を縮景し…』となっている。 まさに、水と緑の中島公園にぴったりの形式である。池の護岸はセメントを一切使わず、石と丸太で組まれたそうだ。灯籠、『なかでも特筆すべきは12基の石灯籠。京都の老舗石屋が、最高級の御影石で…』作ったという。
(『 』内は「札幌文庫84中島公園」より引用)

25.シダレザクラ(枝垂桜)  植物


本来はエドヒガンの枝垂れるものを指すが、ほかの系統にも枝垂れ性のものがあり、それらを総称して使われている。三春の滝桜や京の円山公園の一重白彼岸枝垂桜などの銘木が多く、この木はまだ小さいながら、開花を楽しみにたくさんの人が見学に訪れている。

中島公園で一番人気のあるのが、このシダレザクラ。日本庭園の東側に細長い池がある。藤棚のある対岸にも小さなシダレザクラが立っている。札幌コンサートホール・キタラへの園路になっているので行き帰りに見て行く人も多い。

手前が日本庭園、左側に藤棚がある。右に道なりに行けば札幌コンサートホール・キタラに着く。2014年5月10日撮影

26.八窓庵 はっそうあん  建造物・施設


江戸初期の茶人小堀遠州が江州小室郷の孤篷庵(こほうあん)に作った茶室「舎那院(しゃないん)忘筌」を1919(T8)年に札幌の実業家が移築。その後1987(S62)年に札幌市に寄贈され、現在地に移築されている。札幌に移築時に三分庵を付設し、水屋等を作って利便性を高めている。この建物も国指定の重要文化財である。

画像の正面真ん中に見えるのは「三分庵」、その右側が「八窓庵」。2010年9月、生まれて初めて茶会に行った。茶会は三分庵で開催。「三分庵(さんぶあん)」とは、重要文化財「八窓庵(はっそうあん)」に付設された茶室である。私が八窓庵と思っていた建物は江戸時代の八窓庵に大正時代の三分庵を付け足したものだった。

つまり八窓庵の玄関と思っていた所は三分庵だったのだ。4年前は新しい情報の発信が「中島パフェ」の基本だったが、今は歴史を中心に更新したいと考えている。主な理由は中島公園が札幌の歴史と共に歩んできた公園であること。もう一つの理由は周辺施設のウェブ情報が充実してきたため「中島パフェ」が新しい情報を流す必要性が薄くなったためである。

27.菖蒲池(元右衛門堀跡地)(げんえもんほりあとち)  自然資源


開拓初期には、豊平川上流から流送される木材の貯木場として利用され、その工事を請け負った鈴木元衛門の名をとり、「元衛門堀」と呼ばれた。当初は四角の二つの堀であったが、公園整備に合わせて池をつないだり園亭を設け、少しずつ形を変えながら現在の形になっている

画像は2003年11月16日の撮影。2009年11月中央の木は危険木として伐採された。 2004年9月8日、台風第18号が中島公園を襲い多くの木々を倒壊させた。しかし菖蒲池のシンボル的存在のこの木は残った。台風に負けなかったのだ。あれから5年、まさかこの木が伐採されるとは夢にも思わなかった。撮っておいて本当によかった。虹を撮ったら木が写っていたのだ。


菖蒲池越しの藻岩山。山が一番美しく見えるのが仰角8度と言われている。まさにその位置から撮影。2012年7月20日


幻のオリンピック。札幌市が第5回冬季大会(1940年)に決定したが戦争のため辞退。 札幌市公文書館所蔵

28.フジ  植物


フジの花は家紋によく使われるように、古くから工芸や文学にも登場し、なじみ深い花である。つる性のため、棚作りにして鑑賞するが、菖蒲池と日本庭園の間の道上には、大規模な藤棚が設けられており、長く垂れて咲くフジの花が見事である。

ここは地下鉄中島公園駅と札幌コンサートホール・キタラを結ぶ園路。画像の左側は日本庭園の池、そして右側は菖蒲池。大勢の音楽ファンがこの道を往き、コンサートの余韻を残してこの道を帰る。この写真は2013年6月13日の撮影。


2005年には蔓が藤棚の半分にも届いていなかった。年毎に成長する藤の花を観るのが楽しみだった。2005年6月撮影

29.四翁表功碑 よんおうひょうこうひ  彫刻・碑像・モニュメント


札幌の開拓初期に尽力した四名、水原(すいばら)寅蔵、大岡助右衛門(すけえもん)、石川正叟(しょうぞう)、対馬嘉三郎(かさぶろう)の功績を讃え、開道五十年記念の大博覧会が開かれた1918(T7)年に立てられたものである。

私にとっては何とも親しみ難い表功碑だが、『さっぽろ文庫84中島公園』に面白いことが書いてあった。大岡助右衛門は豊平館等の多くの大工事を指揮した”建築業界の草分け”といわれる人物だがバクチが大好きだった。1871年、同じく表功碑記載の水原寅蔵と共にバクチで捕らえられ創成川のほとりで百叩き”笞杖(ちじょう)百”の刑に処せられた。

開拓期を代表する人物の一面を知り、この碑像に親しみを覚えるようになった。ときどき碑台に上って遊ぶ元気な子等の姿を見かける。危ないから降りなさいと言うべきかもしれないが、表功碑のお爺さん達はもっと危ないことをしていた。しかし北海道開拓には欠かせない重要人物だった。このことに思いを馳せ、多少の冒険心は子等の成長のために好いことかなと思う。

30.人形劇場こぐま座  建造物・施設


大正時代から人形劇や童話会の伝統があったが、1953(S28)年から児童会館で人形劇や腹話術が始められ、日曜子供劇場に発展していった。1976(S51)年、専用の人形劇場を開設し、こぐま座と名付けられて現在に至っている。

こぐま座は日本初の公立人形劇専門劇場。私にとっては入りたいけれど入り難い人形劇場。孫でも居れば喜んで連れて行くのだがとか、考えても仕方ないことを考えてしまう。上の画像は童話の世界のようで気に入っている。今年の「ゆきあかりin中島公園」で撮ったものである。地域住民、生徒・学生、近隣の施設・企業等が協力して中島公園に光の花を咲かせる幻想的で楽しいイベントが開かれた。 

「ゆきあかりin中島公園」のメイン会場は児童会館・こぐま座前の九条広場。 2014年2月7日撮影

31.中島児童会館  建造物・施設


戦後まもなく、公園内には進駐軍のカマボコ兵舎ができたが、その後移転したため、その兵舎の払い下げを受け、1949(S24)年に中島児童会館を開設している。諸説あるがわが国で最も古くから活動している児童会館として、たくさんの子供たちがこの空間で育っていった。

毎年7月初旬に開かれる「かもくま祭」は児童会館とこぐま座の開館を記念した楽しいお祭り。札幌彫刻美術館友の会は2013年から「かもくま祭実行委員会」のメンバーとなり、協力している。担当するイベントは「中島公園彫刻たんけん隊」。

中島公園近所の住民に過ぎないが友の会会員でもあるのでお手伝いをした。普段子供達と接する機会がないので、出来る事と言えば写真を撮りブログやホームページに掲載することくらいだ。それだけのことだが、私にとっては新鮮な経験になった。

32.森の歌  彫刻・碑像・モニュメント


自分が関わったイベントが思い出となり記憶される。「札幌彫刻美術館友の会」の野外彫刻清掃は2011年より「クリーン鴨々川清掃運動」の一環として実施されることになった。高圧洗浄機の利用で、高さ6mのブロンズ像「森の歌」の清掃も可能になった。洗浄機による水洗い後、洗剤水をバケツに入れ、上から流す。その後洗浄機で像全体を清掃した。画像は2012年6月。


鴨々川清掃ではいつも札幌シニアネットの仲間と一緒になる。シニアネットはすすきの地区担当だが、私は中島公園内の彫刻清掃を担当する札幌彫刻美術館友の会員として参加している。開会式からラジオ体操までは一緒にやっている。

山内壮夫の代表作の一つで1959(S34)年に北海道大博覧会を記念して造られたものである。もともと中央広場の噴水の中にあり、当時は白亜の白セメント製の彫刻であった。公園再整備に合わせ、ブロンズ像に改鋳され、1997(H9)年に現在地に移設されたものである。
1980(S55)年頃の「森の歌」、噴水のある中央広場に立っている。彫刻の白さが美しく映えている。


1963年撮影、平成の再整備で消えた風景。森の歌と中島スポーツセンター。この写真はASAから許可を得ています。

33.水天宮  神社・仏閣


1879(M12)年頃、旧久留米藩士水野源四郎が、故郷久留米の水天宮の御分霊を札幌に勧請したが市内を転々とし、漸く1889(M22)年に現在地に社殿を建立したものである。向かって右の祠が稲荷大明神、左が白峯大明神となっている。

水天宮は界隈で一番古い神社だが静かな神社のイメージがある。特に新年は静かだ。  2013年元旦撮影

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2013年12月17日

百花園があった頃の中島公園

百花園があった頃の中島公園 「中島パフェ」

20世紀末、平成の再整備前の中島公園は百花園や子供の国があった華やかな公園だった。
1958年北海道大博覧会開催された。その跡地にはバラと山内壮夫の彫刻を主体とした「百花園」が造られた。
残念ながら、1995年に始まる「平成の再整備」で中島公園の中心に位置した「百花園」は消えてしまった。
中島公園が最も賑わっていたのは「百花園」のあった36年間ではないだろうか。


中島公園「百花園」1994年10月7日撮影。 札幌市公文書館所蔵

以下の写真は「中島パフェ」訪問者のAさんが1978年か98年にかけて中島公園で撮影した写真。
Aさんの説明文を参考にして管理人が文章を書いたが、所詮素人説明しきれない部分も多い。
ここを出発点として勉強しなければと思っている。

ウォーターシュートの思い出(1972年の空撮写真を見て)

昔の中島公園の写真を提供してくれたAさんがウォーターシュートの思い出を次のように書いてくれた。
先ず当時の空撮写真を見てみよう。


1972年5月当時の空撮写真に百花園や子供の国。札幌市公文書館所蔵

「1972年当時の空撮写真を見て、公園を楽しんでいた身として思い出がわきました。
遊園地として設けられていた『ウオーターシュート』(赤丸)に気がついたのです。
画面やや左上方にジャンプ台を思わせるスロープが池に向かって延びています」

それは野球場、百花園、子供の国があった時代だった。もう一度、上の写真を見てみよう。
ウオーターシュートを基点に時計回りに、斜め楕円形の「百花園」、その横に中島球場の一部、
その下に三重丸の「中央広場」がある。

更に下がって遊具が見える「子供の国」、左側にまん丸の「記念広場」、下の方に野外ステージの屋根が見える。
そして小さな白いドームの「天文台」があり、菖蒲池に戻る。
この中で今でも残っているのは天文台と菖蒲池だけ、中島公園が様変わりした平成の再整備だった。


菖蒲池南東岸の築山にウオーターシュート。『北海道大博覧会協賛会誌』

再びAさんの説明文にもどる。
「長方形のボートに数人の客が乗り、船首の平たいところに船頭が立ちます。 
ボートが着水する瞬間に船頭がジャンプしてボートを安定させるダイナミックでスリリングな遊具でした。
人手が掛かるので博覧会終了後に無くなったと想像します」

写真をよく見ると、着水したウオーターシュートとボートが水上にある。
この築山は残っているが、子供たちが見ている飲食店のような場所はない。
関連写真を見ると「XX牛乳」とか「XXアイスクリーム」とかの字が書いてある。
XXの部分は字崩れしていて読めなかったが「雪印」だろうか? 
平成の再整備以前の中島公園は楽しく遊べる場所だったようだ。

明治時代(1897年頃)からあった貸しボート

明治の昔からあった貸しボートについて『中島公園百年』に次のように書いてある。
「釣堀から始まって明治30(1897)年過ぎから貸しボートが登場する。
これは最初は日吉亭が行ったが、のちに大中が優位を占める。
ボートは夏の仕事であるが、冬は陸揚げされて冬籠りするのもわびしい。

春になるとペンキを塗替えてまた息づく。
中央の土手を取り払って一つの池にしたことにより、さらに楽しみを倍加させた。
『O番さん時間ですよ』と呼ぶマイクロフォンの声は池上に広がりなつかしい声である。

貸しボートの櫓は、最初一枚の板幅の広い水を大きくかくように作られていたが、
重いことから今の二枚のスマートな櫓になった。

大正7年の開道50年記念博覧会のときは、数軒の斉藤と、その他の人の所有で20隻を数えた。
舟型は今とそうかわりはないが、すべて木造であることはいうまでもない。

そのころから大中ボートで代表されるようになったのは、料亭大中亭がボートを所有していたからで、
今でも大中がボートを一手に所有している」


1978年5月8日のボート乗り場。当時は相当賑わっていたようだ。
係留しているボートがなく順番待ちの人が並んでいる。


もう少し古い時代の中島公園。藻岩山と中島の位置から推定すると菖蒲池北側からの撮影と思う。
当時は「ボート池」と呼んでいたらしい。
1958年頃に作成された「道博記念事 中島公園百花園 及 記念広場平面図」に記されている。


上の2枚はAさんが父君のアルバムから見つけた写真。

1987年8月2日 皇太子殿下夫妻、中島公園ご散策

1987年(昭和62年)8月2日 皇太子殿下夫妻が当時、皇太子殿下ご一家で中島公園をご散策された。
まるで報道写真のようだが、これは「中島パフェ」訪問者のAさんが撮影した特別な1枚である。
写真と共にAさん自身が書いたエピソードを、紹介する機会を与えてくれたことに感謝。

画像と文は「中島パフェ」訪問者Aさんによる投稿

当時の皇太子殿下夫妻と紀宮様が全国高校総体開会式にご臨席するために来道されて、パークホテルにお泊りになりました。その事を知らずに私は、早朝の公園で十数羽の雛を連れて泳ぎだしたマガモ達の行列を楽しんでいました。

「かわいいですね」と声を掛けられて、振り向いた私はびっくりしました。テレビや新聞で存じ上げている、やんごとない方たちだったからです。殿下が後ろの遊歩道からお声を掛けられたのでした。

殿下は水鳥にも詳しいご様子で、私も野鳥の会の会員で少しは知っていることもあ市内に繁殖する鴨の実態を手短にお話しました。話が長くなるのは失礼と思い、切り上げる際に写真を一枚お願いしご返事の前に図々しくシャッターを押しました。

運よく傍らのSPは私を制止しませんでした。写真を見ると穏やかで親しみが込められた素敵な雰囲気で、撮影をお許し下さっていたことが分かり、ほっとしました。中島公園の朝の、記憶に残る時間の記録です。

平成の再整備以前の中島公園は楽しそう


1992(平成4)年5月17日撮影、 豊平館前で写生会。今と違い東屋があり柵がある。
この辺りでも2004年の台風等で何本かの大木が倒れたが、この2本のヤナギは今でも残っているだろうか。
大木は当時と今を繋ぐ接点となる。


写生会は今でもあるが、こんなに賑わうことはない。
少子化の影響もあるかも知れないが、この時代の方が面白そう。
例えば豊平館前の池に橋が架かっていたりする。
鯉も鴨も居るのだから、橋から見たら面白いと思う。
それに昔の写真を見るとアヒルも居たようだ。


この写真は凄く楽しそう。「子供の国」の観覧車や天文台ドームも見える。
マンションが建ったのは残念だが規制がないのだから仕方がない。
全体の都市計画の問題であるから、規制がないことこそ問題と思う。

1995年には自然の風情があった豊平館前

以下の4枚の写真についてはAさんからのメールに記されていた説明文に私の感想を交えて書いてみた。


「豊平館前は今と比べると自然環境が保たれていて風情がありました」との説明。
池の様子もちがって、自然と融合している様に見える。


「写真の右端にある橋は、今は平らな橋に造りかえられている太鼓橋です」との説明。
上とほぼ同じ場所だが、太鼓橋、東屋、橋、豊平館前の池の位置関係がよく分かる。
自転車の少女が見えるが太鼓橋は渡れないかも知れない。


Aさんの説明文に「1995年の公園には、現在の公園には無くなった風情がありました」とあるが、
自然に包まれている豊平館も素晴らしい。何となく生き物が生息しているような雰囲気がある。


「夕日が落ちる頃から、ツチガエルの鳴き声も聞かれたことを思い出します」と聞くとやっぱりそうかと思える。
ところで最近のことだが、カエルが鳴く声を聞いたような気がした。一生懸命探したが姿を見ることはできなかった。
聞き違えかも知れない。

1998(平成10)年9月3日 菖蒲池をさらう工事

菖蒲池の水を抜いてしまうという珍しい写真を「中島パフェ」訪問者Aさんが提供してくれた。
何の為の水抜きだろうか。ともかく貴重な写真だ。

1969年8月に着手された札幌市営地下鉄工事中には、このような風景も見られたと思う。
工事は池の水を抜いた上で開削工法により行われた。
そして翌年の1970年5月の完工まで公園内の一切は使用禁止となった。


菖蒲池の北側の様だ。鴨は飛んで行くので放っておくとしても鯉は回収しなければならない。
どうやらその作業が行われているようだ。


網で魚をすくっているようだ。


大きな鯉を捕まえた。


う〜ん、死んでいるのかな?


こんな貝が池の中に居たとは知らなかった。見る人が見ればこれらの写真から多くの事実を知ることが出来ると思う。
写真のお陰で普段見ることができない池の底を見ることが出来た。

以上の写真は「中島パフェ」訪問者Aさんの撮影。一部の文はAさんの執筆。
その他、Aさんからの情報を参考にして書いた部分もある。

2013年12月17日更新

百花園があった頃の中島公園

1972年から1998の中島公園

上のメインページは、「中島パフェ」訪問者のAさんが撮影した写真を中心に作成したものである。 
その時代、即ち「百花園」があった中島公園を振り返ってみたいと思う。
以下の写真は札幌市公文書館所蔵


1972.6.15 札幌まつり中島公園の人出

「札幌まつり」は毎年6月15日から16日の3日間。中島公園が最も賑わう日々だ。
今でも混雑しているが41年前は文字どおり足の踏み場もない大混雑だった。

ところで現在の中島公園には電柱が立っていないが、「札幌まつり」の時だけは仮設の電柱が立つ。
電柱を建てるための穴が整備されているのだ。

この設備を利用して、新しい夜のイベントを考えてみたらどうだろうか。
せっかくの設備を「札幌まつり」の三日間しか使わないのはもったいないと思う。

狸小路、薄野、中島公園と繋いだ夜のイベントはどうだろうか。それぞれの特徴を活かせたら面白いと思う。
最古の商店街、華やかな薄野、静かな中島公園。


1973.5.15 豊平館、太鼓橋が懐かしい


1976/8/0 二代目児童会館
初代の児童会館は米軍払い下げのカモボコ兵舎だった。
そして2代目(写真)は1958年開催の「北海道大博覧会」事務所跡を利用した。
今に比べて遊具が豊富だ。向こう側に天文台のドームが見える。手前のイチョウ並木は今より整っているようだ。
現在の児童会館は三代目。1985年の完成。初めて児童会館として建てられたものである。緑色で公園に融合している。


1977/2/0 中島公園子供の国
子供の国は1958年の北海道大博覧会で誕生。
1994年、平成の再整備に伴い円山動物園内へ移設。その後2010年に閉園


1977/2/0 中島公園記念広場
大博覧会跡地にできた施設。「子供の国」と天文台の間にあった広場。
天文台は残ったが「子供の国」と「記念広場」の跡地には札幌コンサートホール・キタラが建った。


1977/4/10 「のびゆく子等」の像
1976年、札幌市内の新一年生の記念事業の一つとして建立。小野健寿氏の作。


1981/4/19 中島公園のボート場がオープン中島公園は変遷を重ね、その姿は大きく変わってきた。
ボートも今とは違うが、変わらないのはボート乗り場と大中食堂だ。


1984/3/5 修復工事中の豊平館
1982年から5年かけて豊平館を改修。
今回の改修(2012年〜2016年)は移築してから2回目の大改修となる。


1985/4/28 中島公園子供の国春まつり


1985/4/28 子供の国 春まつりステージ


1989/12/10 豊水地区子ども会・中島児童会館合同もちつき大会


1990/5/30 中島公園ごみひろい
今でも「クリーン鴨々川清掃運動」「地元連合町内会」、周辺ホテル、その他各種ボランティア団体が清掃活動に汗を流している。又、個人で自主的にゴミ拾い行っている方を見たことがある。中島公園を大切に思っている方々の輪が広がっているようだ。


1990/7/16 鴨々川「鯉の放流」中島公園


1990/7/16 鴨々川で水あそび
最近は「鴨々川水遊び場」以外の場所も、川に入るスロープが付けられ、水遊びが出来るようになっている。
反面、写真のような賑わいはなくなったように思う。
鴨々川で遊ぶイベントはなくなり、家族連れなど個人利用が中心となっている。


1993/4/26 鴨々川清掃
地元町内会による鴨々川清掃風景。


1993/7/2 中島児童会館
1985年に完成した中島児童会館。現在はここにあるる遊具はなくなり、駐車スペースは別の場所に移っている。

以上の写真は札幌市公文書館所蔵。

未来を考える為に過去を振り返る

百花園のある中島公園は今よりも華やかだった。その頃を振り返ってみた。

「百花園」1987年9月11日撮影

以下の写真は札幌市公文書館所蔵。


噴水のある百花園は藻岩山を借景。右に見える大きなポプラは、2006年に危険木として伐採された。
藻岩山の一部は高層ビルの建設で隠れ、この景観も失われて行く。


バラ園のプールには「母と子の像」。


百花園に隣接する「中央広場」。


噴水の中の彫刻は山内壮夫の「森の歌」。中島公園の象徴的彫刻である。

コンクリート製の為この時点でも劣化が懸念されていた。永久的に残す為、ブロンズで再鋳造され、
中島公園の表玄関である九条広場に移された。

以上の写真は札幌市公文書館所蔵。

過去を考えるのは未来のため

過去を考えるのは、それを貴重な経験として未来に役立てる為である。
過去の成功、失敗を正当に評価して未来のために役立てたいと思っている。

後書き

私自身は2001年、すなわち21世紀に入ってから中島公園近所の住人となり、2年後にホームページ「中島パフェ」を開設した。従って、20世紀に撮った手持ちの写真は何もない。
中島公園に来なかった訳でもないが、撮った写真を見ても家族ばかりが写っているだけ。景色の写真は一枚もない。

このたび「中島パフェ」訪問者Aさんから、貴重な写真を沢山、提供して頂いた。
それ手がかりに、現在の中島公園は昔どうだったか調べてみたいと思う。

1年くらい前から、中島公園の歴史を勉強したいと思っていたが、文書で調べることが中心だった。
今、散歩している所は昔どんな場所だったか調べることから始めた。

しかし、皆さんから写真を提供されて、やり方を変えた方がいいと思った。
つまり、この写真は今の何処かを調べた方が中島公園の歴史を理解し易いと考えたのである。

 

参考文献

札幌市公文書館(所蔵資料)
2013年8月7日更新
札幌市公園緑化協会中島公園
2013年11月10日更新
『さっぽろ文庫84中島公園』札幌市教育委員会 編 北海道新聞社 1998年
『中島公園百年』山崎長吉 北海タイムス社1988年

謝 辞

このページ「百花園があった頃の中島公園」の作成に当たり、「中島パフェ」訪問者Aさんの協力を頂きました。
掲載写真は1978年から1998年までの間に、Aさんが撮影したものです。

念のためですが、コピー禁止であることを申し添えます。

沢山の貴重な写真を無償で提供して下さったことをAさんに感謝いたします。
ウェブサイト「中島パフェ」管理人nakapa


1972年5月空撮,野球場,百花園,子供の国が見える。札幌市公文書館所蔵
タグ:百花園
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2013年12月04日

1960年代後半の中島公園

わが青春の中島公園 〜1960年代後半〜

1960年代後半は「百花園」や「子供の国」がある華やかな時代。
札幌パークホテルがオープンし、アポロ11号が月面に着陸した頃である。

大通公園と見間違えそうな中央広場は消えた。 札幌市公文書館所蔵

以下の写真は札幌在住のmisawaさんが、大学時代に撮影した1966年から70年にかけての中島公園である。
その写真と歴史的事実を元に華やかな時代を振り返ってみたいと思う。

なお写真と事実との隙間は、管理人nakapaがアレコレ想像して埋めさせて頂いた。
一生懸命勉強して一日も早く想像の部分を史実へと、差し替えたいと思っている。
札幌市中島公園に芽生えた歴史の芽を枯らさないように育てて次世代に繋げたいと思っている。

1958年「北海道大博覧会」で大人気のウオーターシュート

1958年に開催された「北海道大博覧会」で人気のあったウオーターシュートは、博覧会後はどうなったのだろうか。


1972年5月 空撮、赤丸はウオーターシュート。札幌市公文書館所蔵

画像右側は野球場、百花園と中央広場、子供の国、いずれも現在存在しない施設。
一方、菖蒲池の位置は変わらない。ウオーターシュートが菖蒲池南東の小高い築山にあったことが分かる。

空撮写真からウオーターシュートの施設が1972年には存在していたことが分かる。
しかし、営業していたかどうかは不明。
ウオーターシュートが着水するエリアに水中フェンスがある筈だが、空撮では遠すぎて見えない。


こちらはmisawaさんが1966年から70年の間に撮影した写真。この時点では営業していたことが分かる。
左側に水中フェンスが見える。下の写真を見ればはっきりとわかる。
今までは写真を見ても何も分からなかったが、次第に明らかになって来た。

左側に杭とロープのフェンスがある。
右にウオーターシュート・スロープ、左に建造物、そこには「XX牛乳 XXアイスクリーム」と書いてある。
「北海道大博覧会設計図」が残っていれば、調べるときの有力な手がかりになると思う。
XXは雪印かな? 次第に資料が揃ってきた。判明したら更新するつもりだ。


ボートに乗ってウオーターシュート見物 札幌市公文書館所蔵

よく見ればボートが着水し「船頭」が両手を広げてジャンプしている。
ボートに乗りフェンスに近づいて見ている人は、写真を撮っただろうか?


菖蒲池南(キタラ)側、右側に河口。 札幌市公文書館所蔵
「道博記念事 中島公園百花園 及 記念広場平面図」より切り取り。


ボート乗り場の西側の一部とすると右側に見えるのは中島。
この島には1918年に開催された「開道50年記念博覧会」の迎賓館が建てられた。
東岸より島までの橋は名誉橋。迎賓館は博覧会後、ライオン食堂として営業された。
いつまでかは調べなければ分からないが、そう長くはないと思う。

1964年5月26日 豊平館が国の重要文化財に指定される

1958年に当時の札幌市民会館の場所にあった豊平館が中島公園に移築された。
その6年後に重要文化財として国が指定した。
移築後市営結婚式場として使われることになったが、重文の公営結婚式場はここだけかも知れない。


豊平館は1880年(明治13年)、札幌市民会館のあった場所に建てられた。
意外に知られていないが、文明開化のシンボルと言われた鹿鳴館より3年も前にオープンしている。

本来は開拓使迎賓館・洋式ホテルとして建てたもので、最初に明治天皇が宿泊された。
そして、大正・昭和天皇も皇太子時代に宿泊したことがある。
完全な洋式ホテルとしては日本最古といわれている。


先ずこのページの掲載写真について説明したい。
上の2枚のようにモノクロ写真はmisawaさん提供の写真。
そしてカラー写真は管理人nakapaが撮影した写真。
その他、札幌市公文書館所蔵写真がある。これについては個別に明記。
著作権者を明確にする為このように区別した。

豊平館の色

ある日、中島公園を案内していると「豊平館の色が変わりましたね。昔の色の方が好きです」と言われた。
外国在住で30年ぶりの公園訪問だそうだ。私も長年札幌に住んでいるので見たはずだが色まで覚えていなかった。
正直言って若いときは関心が薄かったのだ。

一体どんな色をしているのだろうと、札幌市公文書館で調べてみたが、いいカラー写真は見つからなかった。
下の写真は1960年9月27日の撮影だが、本当の色を反映しているようには見えない。


ウルトラマリンブルーで塗装される前の豊平館。 札幌市公文書館所蔵


1982年から5年かけて豊平館を改修した。当時のことを豊平館パンフには次のように書いてある。
「修復された豊平館の見どころは、館の白い外壁を縁どる瀟洒なウルトラマリン・ブルーで
創建当初のよすがを復元したものです」。

比べて見ると、やはりウルトラマリン・ブルーは美しい。
昔は宝石として尊ばれた、ラピスラズリ(瑠璃)から造られた高貴な色だそうだ。

「昔の色の方が好かった」と言われると昔を知らない私としては、思わず恥じ入ってしまう。
しかし今は違う。ウルトラマリン・ブルー塗装の方が美しいと自信をもって言える。
老朽化や移築などで失われた創建時の姿を改修することにより、取り戻したのである。

参考までに付け加えると、終戦前後の使われ方は酷かった。
1943年 旧陸軍北部軍飛行第一師団司令部、1945年進駐軍宿舎、1946年三越札幌支店として使用されていた。
単なる建物としか見ていなかったのだろうか。

1948年、札幌市中央公民館として社会教育の場となり、更に1958年、中島公園に移築され市営総合結婚式場となる。
2012年より改修工事中。完工予定は2016年3月と4年間の大工事である。

豊平館の歴史

1879年(明治12年)起工。
1880年(明治13年)11月 完成。
1880年(明治13年)12月3日 落成式。
1881年(明治14年)8月30日-9月2日 明治天皇が宿泊した。
1881年(明治14年)11月6日 原田伝也に無償で貸し付けて経営させた。
1882年(明治15年)2月 開拓使の廃止にともない、札幌県に移管した。
1885年(明治18年) 宮内省に移管した。
1910年(明治43年)9月 宮内省が札幌区に豊平館を貸し、区が電気を設備。
1921年(大正10年)12月 建物が札幌市に移管した。
1926年(大正15年)11月 市の公会堂の建設が始まった。
1927年(昭和2年)11月 新公会堂が完成した。
1933年(昭和8年)11月3日 国の史跡に指定された。
1943年(昭和18年)2月 旧陸軍北部軍の飛行第一師団司令部に使われた。
1945年(昭和20年)10月 敗戦後、進駐軍が接収し、宿舎にした。
1946年(昭和21年) 三越札幌支店が移転した。
1947年(昭和22年)10月 豊平館が米軍より札幌市に返還された。
1948年(昭和23年)2月 市による整備が終わり、札幌市中央公民館と改称。
1948年(昭和23年)6月29日 史跡指定を解除された。
1949年(昭和24年)9月 札幌市民会館に改称した。
1950年(昭和25年) 国が札幌市に敷地を払い下げた。
1957年(昭和32年)2月19日 中島公園へ移築に伴い。大通の豊平館解体式。
1958年(昭和33年)5月31日 中島公園への移築が完了した。
1958年(昭和33年)9月20日 結婚式場として開館した。
1964年(昭和39年)5月26日  国の重要文化財に指定された。
1982年(昭和57年)5か年計画の修復事業が始まった。
1986年(昭和61年)修復完了。創建当初のウルトラマリンブルー復活。
2012年(平成24年)4月1日より4年間工事のため休館。 

今は昔と違う豊平館前の広場


太鼓橋は子供の国(今はキタラ)への園路。左上に木々の合い間からパークホテルの一部が見える。
太鼓橋や自然を感じさせる木製の橋、そして東屋もあり、今より楽しそうな豊平館前広場があったようだ。
当時の写真を見るとアヒルのような白い水鳥が写っていた。その形からカモメではないことは断言できる。


左上に天文台が見える。従って、ここが豊平館前広場であることがハッキリと分かる。
そして豊平館前の池に架かる木橋が天文台側から豊平館側を繋いでいることも分かる。
映像の力は凄いと思う。謎がどんどん解けて行く。


平成の再整備以後は、太鼓橋は普通の橋に変わり、手前の橋と東屋は無くなった。
すっきりとした反面、娯楽性は薄れた。上品になったのかも知れない。


太鼓橋を菖蒲池側から見た写真で場所を確認。札幌市公文書館所蔵

豊平館の歴史クイズで気分転換

正誤クイズに挑戦して豊平館を考えよう! 

問題1:豊平館は戦争中、旧陸軍飛行第一師団司令部として使われた。

問題2:終戦後は進駐軍(米)が豊平館を接収、MP(憲兵)の隊舎とした。

問題3:1946年4月、進駐軍に代わり三越札幌支店が豊平館で営業。

問題4:豊平館は、完全な様式ホテルとして、最古と言われている。

問題5:豊平館は開拓使が建設した質的に最上級の豪華絢爛の建物。

問題6:明治天皇の北海道行幸(天皇が外出すること)の行在所となった日をもってホテル豊平館のグランドオープンの日とした。

問題7:開拓使は民間に豊平館を貸付け旅館と西洋料理店を開業させた。

問題8:豊平館は上から読んでも豊平館、下から読んでも豊平館。

問題9:1982年からの豊平館改修の見どころは、塗料ウルトラマリン・ブルーで創建当初の塗装を復元させたことである。

問題10:豊平館は文明開化のシンボルと言われた鹿鳴館より3年も古い。

解答は最下段。

これからの豊平館 2016年3月リニューアル・オープン

画像は2013年11月15日撮影。全面改修工事中の豊平館。

今回の改修は単に建物の耐震補強と修理だけではなく、豊平館のあり方が大きく変わる工事でもある。
今までのように結婚式関連中心でなく、文化財公開を第一とする。
それに加えて市民が利用できる施設にする計画がある。

先ず、貴重な建築物である豊平館を完全公開し、北海道開拓の歴史を伝え、
学ぶことができる観光施設としてレベルアップする。日中は観光施設として観光客等に公開する。

豊平館をミュージアムと捉え、公開範囲の拡大と充実を図る。開拓使の歴史等を伝える展示、情報発信等を行う。
土足入館とし有料とする。その場合全館有料ではなく足を運びやすい無料エリアをつくるべきとの意見もある。
それをどう反映させるかも課題と思う。

市民文化施設としては夜間、貸室としてコンサート、講演会等に利用出来るようになる。
対象として市民・団体・企業などが考えられている。民間ウェディングサービス会社による結婚式も可能となる。
飲食を伴う利用は、ケータリング事業者による対応で可能とする。この様な計画があると関係者より聞いている。

今回の改修で、豊平館本体の北側に明治時代の創建時に存在した付属棟を新設する。
そこにエレベーター、トイレ、物品収納機能をつける。因みに創建時の別棟には厨房、浴室、トイレ等があった。

中島児童会館

1949年7月3日、カマボコ兵舎(米軍の野戦用兵舎)をもらい受けて中島公園内に開設したのが始まりである。
全国初の公立児童会館としてオープンした。子供のための遊びと学習の催しを行っている。
2009年開館60周年を迎えた。


1958年(昭和33年)7月5日〜8月31日北海道大博覧会開催。
博覧会終了後の10月12日、博覧会事務所を中島児童会館に転用した。
ようやくカマボコ兵舎から脱出して本格的会館をもつことが出来た。画像は二代目児童会館。


二代目児童会館は「こぐま座」と並んで森の中。札幌市公文書館所蔵


従って現在の中島児童会館は一代目のカモボコ兵舎二代目の博覧会事務所跡に続く三代目であり、
初めての児童会館専用建物とも言える。1985年完成。児童会館前の広場は九条広場と呼ばれている。

広場には児童会館の他、人形劇場「こぐま座」、遊具のある遊戯広場、
子供たちにも親しまれている山内壮夫の彫刻「森の歌」、それに「童話の小道」がある。

「お子様ゾーン」と言ってもいいような場所だが、公園入り口に近い為「クリーン鴨々川清掃運動」等、
各種集会の集合場所としても利用されている。

菖蒲池と日本庭園の池に挟まれた池の中道


園路の左側は小さくボートが見えるので菖蒲池と思う。もしそうならば、右側は日本庭園の池であるはずだ。
ならばここは「池の中道」。最下段の空撮写真を見ると、そう思えてくるのだ。
両方の池を合わせた大きな池の中に、一本の道が通っているように見える。空撮写真にある池の左側で確認できる。


そして現在は、このようになっている。ここは札幌コンサートホール・キタラに行く道。
両側に池があって園路には藤棚があり風情のある道となっている。

「札幌まつり」毎年6月14日〜16日


中島公園に露店が並ぶと言えば、毎年6月中旬に開かれる「札幌まつり」。
残念ながら、ここが何処か分からない。今後資料が揃ってくれば分かる時も来ると思う。
歴史の調査は今の中島公園が昔どのような姿であったか知ることから始めたいと考えている。

その他の写真


人々はスーツなど、いわゆるヨソユキを着ている。手前には玩具のような物が山積みにされている。
「キッコーマン」との文字も見える。何かのイベントのようにも見える。背景は森だろうか。
私にとっては謎の写真だが興味深い。


これも場所がどこかが課題となる写真。
中島らしきところにある松の木とイチイは撮影時より約50年たっている現在では、成長したか倒れたか分からない。

松の陰に薄らと見える建物はmisawaさんからの情報と『札幌文庫84中島公園』のマップを照合すると、
北海道地下資源調査所らしい。もしそうだとすると、この写真は菖蒲池西側から撮ったものと思われる。


日本庭園側から園路を撮ったものとすれば、その向こうは菖蒲池?


残念ながら何処で開かれた何のイベントか分からないが服装が興味深く感じた。
行楽に行くのに大人はスーツ、子供は学生服を着るなど時代を反映したお洒落が懐かしい。
学生が学帽をかぶる時代だった。

以上のモノクロ写真は札幌市公文書館所蔵と記されたものを除き、札幌在住のmisawaさんの撮影。
ご協力有り難うございました。管理人

「わが青春の中島公園」時代は百花園の時代

この時代の中島公園の中心は北海道大博覧会開催を記念してつくられた中央広場。
そして博覧会跡地でオープンした「百花園」と思う。
百花園の時代は平成の再整備が始まる1995年くらいまで続いた。華やかな37年間だった。

平成の再整備後の中島公園は道立文学館、札幌コンサートホール・キタラが建ち、
野球場、百花園、中央広場等、跡地のほとんどは緑のオープンスペースとなる。
水と緑の中島公園に加え、歴史と芸術の公園を目指している。


1200株のバラを植え込んだ「百花園」は消えた。札幌市公文書館所蔵

misawaさんが撮影した当時の中島公園には野球場・百花園・子供の国があった。
今は野球場跡には文学館と広場、百花園跡地は「香の広場」、子供の国跡には札幌コンサートホール・キタラがある。

1960年代後半の中島公園その2

以下の写真はmisawaさんの撮影。それらの写真に触発されてこのページを作った。
百花園のある古い中島公園に思いをはせて、札幌市公文書館所蔵写真も一枚追加した。


どうやら「札幌まつり」の露店のようだ。金魚すくいをやっているらしい。
ところで、すくった金魚だが中島公園の菖蒲池に放して行く人もいるらしい。

と言うのは「札幌まつり」の後、池で金魚を見たことがある。2,3日したら金魚は居なくなっていた。
別に遠くに行ったわけではない。生き物に詳しい人の話ではカラスに食われたそうだ。

カラスに限ったことではないが、一般に鳥は目がよい。赤い金魚は遠くからでもよく見える。
しかも金魚は小さいから食べ易い。放した金魚が広い池で自由を満喫していると思ったら大間違い。
カラスのエサにされた様なものだ。


「札幌まつり」のオートバイサーカス。 札幌市公文書館所蔵

今も昔も中島公園が一番賑わうのは毎年6月14日〜16日の「札幌まつり」の日。
園路には露店が並び、自由広場にはお化け屋敷等の小屋が立つ。
オートバイサーカスは今でも行われている人気イベントである。


当時豊平館前広場にあった東屋とは違うようだ。何処だろうか。機会があったら調べてみたい。


何かのイベントのようだが、場所は菖蒲池北側と思う。他の写真と見比べてそう思った。


これは上の写真と同じものを別のアングルから撮ったものと思う。
皆さんは熱心に何を聞いて何を見ているのだろう。興味をそそらせる写真だ。
前列で見ている少年は中学生だろうか。今は55歳くらいかな。


1919年に植栽されたイチョウ並木。この写真の時点で約50年たっている。
そして2013年現在では約100年たったことになる。


風情のあった1960年代後半の菖蒲池。以下、6枚の菖蒲池の写真を並べてみた。

以上の写真はmisawaさんの撮影。

百花園があった頃の中島公園

1958年の北海道大博覧会を機に中島公園は大きく変わった。
子供の国、天文台誕生。その1年後百花園がオープンした。


「子供の国」札幌市公文書館所蔵

1994年、「子供の国」は36年の歴史の幕を閉じ円山動物園内に移設された。
「円山子供の国キッドランド」と名を変えて開園したが、2010年9月30日に閉園した。
子供の国を誕生させた北海道大博覧会から52年後のことである。

北海道第博覧会で誕生した天文台


「札幌市天文台」札幌市公文書館所蔵

1958年の北海道大博覧会で雪印乳業館として建てられた。
引き続き天文台として現在に至るまで利用されている。


2012年5月21日天文台で日食観望会

5月21日、大部分が欠ける部分日食が札幌でも見えた。
金環日食でないのは少し残念な気がしたが、約600名が中島公園内の札幌市天文台に集まってきた。
この賑わいは北海道大博覧会を超えたかも知れない。

博覧会跡地に出来た「百花園」


「百花園」札幌市公文書館所蔵

百花園は北海道大博覧会(1958年)の跡地を利用して開園したバラ園である。
1995年からの平成の再整備で閉園した。その跡地は緑とオープンスペースの芝生の広場となっている。
「香の広場」と呼ばれているが、余り知られていない。


「百花園正門付近」札幌市公文書館所蔵

現在文学館が建っている場所の向かいが百花園正門になっていた。
そこから入ると右側にローズハウス、左に曲がると水呑台、その右側に円形パーゴラ。
そしてその中心に山内壮夫の彫刻「笛を吹く少女」があった。


パーゴラに囲まれた「笛を吹く少女」


「笛を吹く少女」公文書館所蔵2枚

ボランティアが「笛を吹く少女」像の周りで清掃しているところだが、背後に円形パーゴラの一部が見える。


1959年と1961年に設置された山内壮夫の彫刻5体の内、「笛を吹く少女」だけが、ほぼ元の位置に立っている。
これが当時の百花園の位置を知る手がかりになると思う。

博覧会事務所が児童会館となる

北海道大博覧会終了後、博覧会事務所は中島児童会館として活用された。


二代目児童会館 札幌市公文書館所蔵1958年〜1984年の間使用される。


1984年児童会館一時閉館行事。同上所蔵現在の児童会館は85年にオープン。

移設された豊平館は博覧会美術館

何よりも大きな出来事は豊平館が市街地より中島公園内に移築されたことである。
そして豊平館は北海道大博覧会の美術館として使用された。


移築した豊平館。札幌市公文書館所蔵


豊平館で結婚式場利用申込み。同上所蔵

豊平館は中島公園に移設されてから市営総合結婚式場となった。
当初は利用申込が殺到、ピーク時である1962年には年間1148組の利用申込があった。

申込者は次第に減り、2010年には、たった50組となった。
2012年より2016年度まで改修中だが、豊平館の結婚式場としての役割は終わる。
結婚式を行うとしても民間による貸室利用サービスの一つに縮小される。


豊平館創建百年記念式典、同上所蔵

豊平館は文明開化のシンボルと言われた鹿鳴館より3年も古い1880年(明治13年)の建立。
1980年11月3日に創建百年記念式典が行われた。


豊平館前池左側の太鼓橋等。同上所蔵

この画像より、当時の豊平館前の池には菖蒲池に繋がる太鼓橋の他に木橋と東屋があったことが分かる。
池には蓮やアヒルも?

素晴らしい景観が消えた

1995年からの平成の再整備の中で博覧会を記念して造られた中島公園のシンボル的彫刻のある中央広場はなくなった。


北海道大博覧会を記念して造られた中央広場。噴水の真ん中に「森の歌」がある。札幌市公文書館所蔵

同時に、パラ園として人気のあった百花園は閉園となり、平成の再整備以後は「香の広場」と呼ばれる芝生の広場となった。

百花園の跡地は「香の広場」

「香の広場」は百花園跡地だが、中島公園のほぼ中央に位置し札幌コンサートホール・キタラに比較的近い。
下の画像に白い案内板が立っているがが、そこに「香の広場」と書いてある。


画像の白い案内板を拡大すると、この様に書いてある。
この他にも近くの木々の間に「香の広場」と書いた表示板があるが葉の陰に隠れて見えないこともある。

「香の広場」について書いたのには訳がある。
この広場はイベント等に使われることが多いのに名が知られていない。

「香の広場」とはハーブ等、香ある花を植えてある一角を示すのか、広場全体をさすのか不明だが、
あえて全体を「香の広場」と考えている。

「中島公園ほぼ中央の芝生の広場」とか「ワンワン広場」とか呼ばれることが多い。
イベント案内等を簡単に書くためには広場全体を指す名が必要と思う。

「子供の国」の跡地はキタラ

子供たちに人気の「子供の国」は円山動物園に移設。
現在その跡地には札幌コンサートホール・キタラが建っている。


まるで水の流れがキタラに通じているように見える。
一流のコンサートホールと言われているが景観も一流と思う。

未来を考える為に過去を振り返る

百花園のある中島公園は今よりも華やかだった。
この頁のタイトル「わが青春の中島公園」と重なる時代でもある。
その頃の中島公園を振り返ってみた。過去を考えるのは、それを貴重な経験として未来に役立てる為である。
過去の成功、失敗を正当に評価して未来のために役立てたいと思っている。

中島公園ほぼ中央の「香の広場」。

後書き

私自身は2001年、すなわち21世紀に入ってから中島公園近所の住人となり、
2年後にホームページ「中島パフェ」を開設した。

従って、20世紀に撮った手持ちの写真は何もない。
中島公園に来なかった訳でもないが、撮った写真を見ても家族ばかりが写っているだけ。
景色の写真は一枚もない。

このたび札幌在住のmisawaさんから、貴重な写真を沢山、提供していただいた。
それがキッカケになり、現在の中島公園は昔どうだったか調べたくなった。

1年前くらいから、中島公園の歴史を勉強したいと思っていたが、文書で調べることが中心だった。
それは今、散歩している所は昔どんな場所か調べることから始めた。

しかし、misawaさんか写真を提供されて考えたというか、やり方を変えた方がいいと思った。
つまり、この写真は今の何処かを調べた方が面白いと思ったのだ。

謝 辞

このページ「わが青春の中島公園」の作成に当たり、札幌在住のmisawaさんに協力して頂きました。
掲載写真は1966年から70年までに撮影されたものです。

沢山の貴重な写真を無償で提供して下さったことに感謝いたします。
ウェブサイト「中島パフェ」管理人nakapa

1972年5月空撮,野球場,百花園,子供の国が見える。札幌市公文書館所蔵

「豊平館の歴史クイズ」解答:問題8以外すべて正解。
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2013年11月15日

思い出の山内壮夫ワールド

山内壮夫ワールドとは

1958(昭和33)年7月5日から8月31日まで「北海道大博覧会」が開催。その後博覧会の収益でバラなどを集めた百花園、噴水のある中央広場を開設した。そして山内壮夫作の彫刻5体が順次設置されて行った。


「笛を吹く少女」の解説を聞き清掃をする小学生。 2010年9月

百花園にはの笛を吹く少女、母と子の像、猫とハーモニカ、鶴の舞、噴水の中央には森の歌が設置された。平成の再整備で百花園等は廃止されたが、4体が百花園跡地の「香の広場」に残され、森の歌はブロンズに再鋳造されて九条広場に設置された。

私の役目は次世代への継承

私たちシニア世代の最も重要な「仕事」は次世代への継承と思う。農業、工業、商業、家庭等の仕事をして来た人には継承すべき技術や技能がある。 しかし、「空の交通整理」に従事していた私には継承すべきものが何も無い。定年後は中島公園を良好な状態に維持して次世代に引き継ぐことを「仕事」と思うことにした。どれだけ出来るか分からないが精一杯やろうと思っている。

思い出の山内壮夫ワールド(昔の「百花園」)

中島公園の歴史を調べると札幌の歴史が見えてくる。2013年7月、札幌市公文書館が開館した。その所蔵写真を見てビックリした。そこには今の中島公園では見られない美しい「森の歌」の写真があったのだ。(下の画像)

噴水の中心に据えられた山内壮夫の「森の歌」。札幌市公文書館所蔵

この写真は背景にビルがあったり仮設された小屋が並んでいたりしていて少々見苦しい。おすすめの景観ポイントはこの画像の反対側にある。後ほど「消えた素敵な空間」の中でで紹介するつもりだ。

とりあえず噴水の中に立つ白くて美しい「森の歌」を載せてみた。心の中でビルと小屋を消して見れば、すっきりした景観がイメージされるだろう。

公文書館には、下に示す「百花園(1959年〜1995年)」とその周辺の空撮写真もあった。この写真の左側は今でもある菖蒲池、その下の方に天文台の白いドームが小さく見える。右上が中島球場だが、今は撤去され文学館を含む緑のオープンスペースに変わっている。


1972年5月空撮,野球場,百花園,子供の国が見える。札幌市公文書館所蔵

右半分中央に百花園全体が見える。上の方が半円形なっているが、半円の中央に見える白い点が「笛を吹く少女」、その右下のX状の真ん中の四角い人工池の中に「母と子の像」。そして、そこから斜め線が延びている。 

右側の白い点が「鶴の舞」、左側の更に小さい白い点が「猫とハーモニカ」と思う。そして、その右下の三重丸の真ん中に「森の歌」がある。

次の「消えてしまった素敵な空間」に掲げる3枚の写真を見て、このように推定した。 「森の歌」「笛を吹く少女」については後ほど示す百花園のマップと照合して間違いないと確信する。「母と子の像」については下に掲げる二枚目の写真からほぼ間違いないと判断できる。「鶴の舞」と「猫とハーモニカ」については正直に言って自信がない。もう少しハッキリした資料がほしいところだ。

消えてしまった素敵な空間

下の画像には冒頭で紹介した「森の歌」が藻岩山を背景として小さく写っている。山内壮夫が描いた公園のデザインは、この方向から見た百花園であり、「森の歌」ではないだろうか。

青空の下にそびえる藻岩山をバックに噴水がある。噴水に囲まれてる「森の歌」が立つ左側に「鶴の舞」があり、右側に「猫とハーモニカ」が小さく見える。

1987年9月11日 藻岩山を背景に3体の彫刻 札幌市公文書館所蔵

この画像では見ることができないが、手前には水の中に設置された「母と子の像」(次の画像)がある。「母と子の像」と「森の歌」、そして藻岩山が一本の線として繋がっている。そのような観点から見ると百花園は藻岩山を借景とした舞台ではないかと思う。残された彫刻にも新たな舞台が必要だろう。

長い間、札幌に住んでいるので百花園にも行ったはずだが、なぜか記憶が薄い。若いころは奇麗な花や景観などを楽しむ余裕がなかったのかもしれない。

今にして思うと、とても残念だ。美しい風景をしっかりと記憶に留めて置けばよかった。写真に撮って置けばもっと好かったと思う。昔は家族・友人等、人ばかり撮っていて、風景などは人物の背景としか思っていなかった。


1987年9月11日 後ろから見た「母と子の像」 札幌市公文書館所蔵

母と子の視線の先には、人間・動植物等の自然が刻まれた「森の歌」があり、更にその先に藻岩山がある。そして一連のオブジェの最後尾に位置するのが「笛を吹く少女」。笛を奏でている(次の画像)少女の姿が美しい。

藻岩山から少女像まで一本の線でつながれている。北海道の自然を背景に、それとの調和を図りながら5体の作品が設置されている。これらの彫刻はセットのはずだが平成の再整備でバラバラになり現在に至っている。百花園という舞台を失った彫刻が寂しそうに見えるこの頃である。

「笛を吹く少女」周辺ではボランティアによる清掃が行われている様だ。

いい写真だが、彫刻が単体で写っているのが欲しい。どこかにないだろうか?

← 1989年4月15日 笛を吹く少女
  札幌市公文書館所蔵

昔は、付近の住民が中島公園を誇りに思い、積極的に清掃活動などを行っていたと聞いている。 

ボランティアが定着する以前のことだが住民の意識は高かった。そして、今でもその様な意識は古くからこの地に住んでいる人々に受け継がれているようだ。鴨々川の清掃も町内会の手で定期的に行われている。


景観全体が山内壮夫ワールドだった

5体の彫刻全ては、札幌とゆかり深い彫刻家,山内壮夫の作品である。無限に広がる青空と藻岩山を背景に、花と緑で飾られた空間がある。山内はそこに5体の彫刻を配置して、一つの作品にまとめ上げたのではないだろうか。


1987年9月11日 噴水の真ん中に「森の歌」 札幌市公文書館所蔵

「素晴らしい景観でしょう。 私は山内壮夫ワールドと呼んでいるんです」
「ちょっと待てよ…、どこかで聞いたことあるぞ」
「まあ、いいじゃないですか」
「百花園は北海道大博覧会の跡地を利用して出来たんだな」

「そうですね。1959年の開園で、1995年には早くも閉園しています」
「花の命は短くて、たった36年か」
「変わるのが早すぎるように思うのですが、良くなっているのでしょうか?」

1958年は日本が発展途上にあり、人々の生活は貧しくても将来に希望を抱いていた時期だった。まさにその時、北海道大博覧会が開かれた。その記念事業として造られたのが「百花園」であり上の画像「中央広場」である。

いずれも1995年からの再整備計画で緑のオープンスペース、即ち芝生の広場となった。現在この広場には「香りの広場」と書かれた看板が立っている。

これが本来の姿、「猫とハーモニカ」と「母と子の像」


「猫とハーモニカ」には耳がある。いつからなくなったのか不明だが、私が2001年に見たときは、既に耳が無かった。 
札幌市公文書館所蔵


百花園があった時代、「母と子の像」は水の中。 札幌市公文書館所蔵

野外彫刻の保全

野外彫刻の保全(百花園のコンクリート彫刻の場合)

1958年に開かれた「北海道大博覧会」の記念事業として「百花園」と「中央広場」が整備されたが、この二つは一体になっている。百花園には4体の彫刻、中央広場には「森の歌」が設置された。「森の歌」については平成の再整備の中で長期保存に適したブロンズ像に再鋳造され九条広場に移設された。

問題は「百花園」跡地に残された4体のコンクリート像である。コンクリート建造物の耐用年数は大体は、50〜60年が目安とされている。4体とも50年以上経過し劣化が著しくなっている。「札幌彫刻美術館友の会」では4年前からボランティアを募り経年劣化コンクリート像4体の補修作業を行っている。

補修作業については後述するとして、現状について簡単に触れた後、ここに至るまでの経緯について分かる範囲で説明したいと思う。

芝生の広場(香の広場)はかっての「百花園」


芝生の広場から見える藻岩山も高層ビルに隠れ始めている。札幌コンサートホール・キタラ前の大きなポプラは危険木として伐採された。「笛を吹く少女」だけが50年余り前とほぼ同じ位置にあり藻岩山の方に向いている。


1987年当時の百花園から藻岩山を望む。 札幌市公文書館所蔵

25年前のほぼ同じ場所の画像。当時は「百花園」と呼ばれていた。正面の藻岩山は変わらないが高層ビルがないので開放感がある。右手の大きな木は札幌コンサートホール・キタラ前にあったポプラ。2006年に危険木として伐採された。

彫刻の配置は正面に「森の歌」、左手に「鶴の舞」、そして右手に「猫とハーモニカ」。この画像の外になるが手前の池の中に「母と子の像」、更にその後方に「笛を吹く少女」が立ち、自然と融合した山内壮夫の世界が広がっていた。

百花園(1959年〜1995年)は藻岩山を借景とし、綺麗に整備されていた。中島公園のほぼ中央に位置する素晴らしい施設だった。彫刻「森の歌」を中心に据えた噴水は中島公園のシンボル的存在であった。

平面図で確認する「山内壮夫ワールド」

先ず、空撮の画像で場所の確認。ぼぼ真ん中が百花園と中央広場。

1972年の中島公園、菖蒲池だけは変わらない。 札幌市公文書館所蔵

以下の平面図は札幌市公文書館所蔵
「道博記念事 中島公園百花園 及 記念広場平面図」より切り取り。


左側のひと塊が百花園で右側の丸い噴水池の中心に「森の歌」が据えられていた。円形の周囲を含めて中央広場を形成していたのではないかと思う。私自身はこの二つをまとめて百花園と理解していた。

左側の半円形の中央に「笛を吹く少女」、百花園中央辺りの四角い池中に「母と子の像」、そして中央広場の中心に「森の歌が」配置されている。この3体の彫刻は一本の線上にあり、いずれも藻岩山方面に向いている。


上図左側の半円形状部分を拡大。彫刻と書いた場所に「笛を吹く少女」。


右側の円形状部分を拡大。中央の彫刻は「森の歌」

以上の平面図は札幌市公文書館所蔵
「道博記念事 中島公園百花園及記念広場平面図」より切り取り。

2010年〜2013年 野外彫刻補修作業一巡

平成の再整備で「森の歌」はブロンズ像で再鋳造されて九条広場の中島児童会館前に移された。そして4体のコンクリート彫刻は百花園の跡地、緑のオープンスペースとなった「香りの広場」に再配置されている。

しかしながら、いずれの作品も制作後50年以上経過し、著しい経年劣化を示している。 そんな状況の中で…、

「保全対策は今でしょう!」と、立ち上がったのが「友の会」だった。野外彫刻の調査・清掃・啓蒙活動に実績を重ねてきた「札幌彫刻美術館友の会」、略称「友の会」である。

そして、補修作業は一巡した。2010年「猫とハーモニカ」、2011年「母と子の像」、2012年「笛を吹く少女」、2013年「鶴の舞」と毎年1体ずつ仕上げ、4年間に亘る補修プロジェクトは終了した。パーマシールド処理の有効期間は5年なので来年は休み、2015年から彫刻補修作業を再開することにしている。

2010年8月 第1回野外彫刻補修作業「猫とハーモニカ」


第1回目は子供たちにも人気のある「猫とハーモニカ」。友の会会員は高齢者が多いが、若い人も、その子供たちも参加してくれた。先ず彫刻を綺麗に洗い、乾かした後パーマシールド塗装による劣化防止処置を実施した。

初めての劣化防止作業を「猫とハーモニカ」で試行することにしたのは、高さ80cmと低く作業がし易いことがその理由。成功を確認した上で次の像を手がけることにした。経年劣化したとはいえ大切な美術品だから慎重に対応しなければならない。

2011年7月 第2回野外彫刻補修作業「母と子の像」


前年の経験を踏まえ、コーティング前に徹底した清掃作業を行うことにした。7月10日・19日・20日と清掃を重ねてから、パーマシールド塗装を行った。

友の会の熱心な活動が外部の方々にも知られるところとなり、今回は札幌コンサートホール・キタラの方々も参加してくれた。

ところで、「好いことだから勝手にやっていい」と思ったら大間違い。先ず当局の許可が必要である。 準備作業は、この彫刻はどこで管理しているか調べるところから始まる。

この時点では彫刻管理の窓口はバラバラだった。中島公園内にあるから公園に関する部署というような簡単な話ではなかったそうだ。

2012年6月 第3回野外彫刻補修作業「笛を吹く少女」


パーマシールド液の塗布にはコンクリート表面の乾燥が不可欠だが、幸い天候には恵まれた。液を塗りつける前に徹底した清掃が必要なことは前2回の経験で分かったこと。例えば上の画像にあるように布で彫刻を包んだりした。

彫刻を奇麗に洗ったら、濡れたシーツをかけて包む。水分を充分に彫刻本体に含ませて3時間ばかり放置すると汚れがきれいに取れるのだ。その後、更に徹底的に清掃して一日目の作業は終了した。

この方法は前回の「母と子の像」から取り入れた。 そして彫刻を2回清掃して3回目にパーマシールド塗装を行うことも定着した。補修方法も経験を重ねているうちに次第に進化して行った。

2013年8・9月 第4回野外彫刻補修作業「鶴の舞」


今までは天候に恵まれたが、そのせいか今回は倍返し? 悪天に悩まされた。 8月の晴天は片手で数えるほども無かった。パーマシールド塗装は不可能だし、雨の中の清掃も楽じゃない。

しかし、好いこともあった。雨の中を元気に走り回って彫刻を探す小学生との出会いがあり、図らずも即席彫刻説明会の開催となった。雨の中、子供たちが熱心に説明を聞いている姿が頼もしい。何と言ったってこれからの社会を支えるのは子供たちだ。 全体の内容 → 野外彫刻保全作業

素晴らしい景観を残す道はなかったのだろうか?

再び山内壮夫ワールド思い浮かべてほしい。この空間は大きく変化した。既に藻岩山はビルの陰に隠れ始めている。花と緑と噴水のある「百花園」はなくなり、噴水の中心にあった「森の歌」も姿を消している。


百花園の跡地は芝生の広場となった。右側の大きなポプラは、危険木として切り倒されて今は無い。藻岩山もビルの影響で景観が崩れている。

こうなってみれば、2002年の中島公園再整備に伴い「森の歌」が児童会館前に移設されたのは、必然かもしれない。ところで「森の歌」は、移設に際し長期保存に適したブロンズで再鋳造された。


「森の歌」の周りは花の広場になる計画があった。 2011年7月撮影。

約半世紀前、青空と藻岩山をバックに、開放的で美しい空間が広がっていた。 そこには、それぞれが素晴らしい個性をもつ5体の彫刻が配置され、景観そのものが、まるで芸術作品の様だった。しかもその中心は「森の歌」だった。

しかし、それらは幻のように消え去ってしまった。惜しいことをしたと思う。野外彫刻を含めた景観を、そのまま残す道はなかったのだろうか。

残りの4体の彫刻は、百花園とほぼ同じ場所に造られた芝生の広場(香りの広場)を囲むように、場所を変えて配置されている。

母と子の像 2011年7月撮影

笛を吹く少女 2011年7月撮影

鶴の舞 2011年7月撮影

猫とハーモニカ 2011年7月撮影

こうして見ると、花と緑に囲まれた彫刻もいいものだと見直している。ひっそりとたたずむ「母と子の像」、バラに囲まれて立ち姿が美しい「笛を吹く少女」、緑をバックにした「鶴の舞」、子どもたちが座って遊べる「猫とハーモニカ」。 

それぞれに趣があって素晴らしい。 しかし、「山内壮夫ワールド」は消えてしまった。人・動植物をふんだんに刻んだ「森の歌」は移設され、ビルなどの建設で藻岩山の景観も崩れ始めている。何よりも彫刻たちのステージである「百花園」が消え去ってしまった。

コンクリート彫刻の寿命は長くて60年といわれている。この4体の彫刻については定期的に「札幌彫刻美術館友の会」がボランティアを募り補修作業を続けて行くことにしている。

晴れの舞台は失っても山内壮夫の世界を続けて行くための努力はボランティアの手でなされている。この様な活動を支援する輪が広がれば、いつの日か新しい舞台が構築され、綺麗で住みよい札幌へと繋がるだろうと期待している。

「中島公園・昔と今」を探り続けたい

1958年の「北海道大博覧会」は子供の国と天文台を生み、豊平館を中島公園に定着させた。そして「山内壮夫ワールド」が誕生した。

1992年の「平成の再整備」構想では、水と緑に加え歴史と芸術の公園を目指すことになった。着々と整備されている部分もあるが道半ばの感もある。

中島公園の歴史は、札幌の歴史そのものと言われ、変化を繰り返しながら現在の姿がある。1回目を「山内壮夫ワールド」とし、順次、いろいろな視点から「中島公園の昔と今」を探って行きたいと考えている。

以下、昔の写真:札幌市公文書館所蔵


上の写真と下の写真に写っている野外彫刻は同じ「笛を吹く少女」。百花園でごみ拾いをする子供たち。少女像の後ろにはパーゴラが見える。1989年4月撮影


今でも子どもたちに受け継がれているボランティア活動。2010年6月撮影


百花園近くの噴水池。1962年4月撮影


母と子の像は水の中。1987年9月撮影


大きなポプラも今はない。1987年9月撮影
以上、昔の写真:札幌市公文書館所蔵

山内壮夫作品の昔と今

昔の百花園(1959年-1995年)に山内壮夫の彫刻が5体あった。それらの彫刻は今でも比較的良好な状態に保たれている。それはボランティアによる清掃と補修作業が行われているからと思う。

補修についてだが、「森の歌」は長期保存に適したブロンズ像として再鋳造されたので問題はない。しかしコンクリートづくりの「母と子の像」以下4体の彫刻の寿命は、せいぜい60年と言われている。

この4体のコンクリート彫刻は一部に鉄筋が露出した部分があるものの、比較的良好な状態に維持されている。

耐用年数が限られているコンクリート彫刻がある程度良好に維持されているのは補修作業と清掃のお陰ではないかと思っている。

彫刻清掃と補修作業は「札幌彫刻美術館友の会」が主催し、ボランティア活動として実施している。

森の歌


札幌市公文書館所蔵
噴水の中にそそり立つ白色の像は、花と緑の中で一段と映えている。彫刻は見る角度によって背景が変わる。

上の画像の場合、仮設小屋とビルが景観の邪魔になっている。これとは逆方向に藻岩山を借景とした方向から見れば「森の歌」は見違えるように美しい。

繰り返しになるが、藻岩山に向かって、「森の歌」「母と子の像」「笛を吹く少女」が直線上にに繋がるように配置されている。

つまり、「森の歌」は藻岩山に象徴される北海道の自然を表しているように見える。その背後に「森の歌」を見つめる母子、そしてその後ろには笛を奏でる少女がいる。

これらがひと組になって景観を形成しているように思う。藻岩山の自然、「森の歌」以下4体の彫刻、そして百花園は切ってもきれない関係と思う。

彫刻「森の歌」には北海道ゆかりのものが所狭しと盛り込まれている。動物が何匹、植物がいくつ、ヒトが何人と数えたら面白いかも知れない。円柱状に繋がっているので数えるのがとても難しいのだ。


前述したように、「森の歌」は1997年中島公園のリフレッシュ工事に伴い、長期保存に適したブロンズ像で再鋳造し、場所も中島児童会館前に移された。

その周りは花の広場として再整備されると聞いていたが、未だに何も実現していない。手を付けない内に16年もたってしまった。 忘れられたのだろうか?


ボランティアによる彫刻清掃が定期的に行われている。高圧洗浄機の利用で、高さ6mのブロンズ像「森の歌」の清掃も可能になった。

洗浄機による水洗い後、洗剤を溶かした水をバケツに入れ、上から流す。その後、再び洗浄機で像全体を清掃する。

背の高い像を下から清掃するのは、かなり難しい作業だ。本格的な清掃となれば足場を組んでの高所作業になる。予算の裏づけが必要となってくるだろう。

母と子の像


札幌市公文書館所蔵
後ろにパーゴラと薔薇の花壇が見える。百花園があった頃の「母と子の像」。母子四つの目が「森の歌」を見ている。あるいは遥か彼方の藻岩山を見ているのだろうか。


「母と子の像」は平成のリフレッシュ工事に伴い「香りの広場」の芝生の上に移設された。コンクリート構造物の寿命はせいぜい60年と言われているが、こうして見ると意外に綺麗な「母と子の像」である。

既に紹介したように、「札幌彫刻美術館友の会」の主催でボランティアによる彫刻清掃と補修作業が行われているからである。


この写真は、「中島公園の彫刻守れ」という見出しの記事と共に、2008年7月10日付けの北海道新聞に掲載された。

2007年の「札幌まつり」の最終日(6月16日)の夜、「母と子の像」は何者かにより押し倒された。そして数日後、花火で目も焼かれた。この様な悪戯が繰り返された。

この事件がきっかけでボランティアによる彫刻清掃が始まった。

清掃作業の中でコンクリート彫刻の経年劣化に気がついた。表面がザラザラして、一部の鉄筋は表面に露出している。

このままでは寿命が尽きてしまう。何とかしなければいけないとの思いで補修作業を行うことになった。


補修作業の様子→ 彫刻劣化防止作業

笛を吹く少女


札幌市公文書館所蔵
背景にビルの一部が見える。そこには「アカシア」の文字がある。多分そこに建っていたホテルアカシアのてっぺんの部分と思う。ホテルの跡地には界隈一の高層マンションが建っている。

アカシアホテルはホテルライフォート札幌となり、豊水通を挟んで札幌パークホテルの近くに場所を変えて建っている。

「笛を吹く少女」は百花園の東端にあって藻岩山の方を向いて笛を奏でている姿で立っている。因みに笛は最初からない。

写真が見つからず、周辺のごみ拾いの中で写っているものから切り取った。なお切り取らないオリジナル写真は冒頭に掲載した。


百花園閉園後は緑のオープンスペースになり、「香りの広場」と呼ばれる様になった。そしてその東端に「笛を吹く少女は」が立っている。薔薇の季節には綺麗な花に囲まれて以前と同じように藻岩山を見ている。

百花園等にあった山内壮夫の彫刻、5体の内「笛を吹く少女」だけが、ほぼ元の位置に再設置されている。手持ちの資料では断定するのは難しいが、そう思っている。

猫とハーモニカ


札幌市公文書館所蔵
百花園時代の「猫とハーモニカ」には、当然耳がある。硬いコンクリート製なので自然に落ちるはずはない。悪戯による破損と思う。


耳が無くなり何となく大人しい感じになってしまった「猫とハーモニカ」だが、子供たちには親しまれている。乗ったりして遊んでいることもあるが、可愛がる気持ちで清掃してくれることもある。

鶴の舞


札幌市公文書館所蔵
背景に藻岩山がかすかに見える。この画像から「鶴の舞」は百花園の南側にあったように考えられる。


今の「鶴の舞」の背景はこんもりとした林になっている。抽象的な作品で私には鶴に見えない。

アイヌの舞踊「鶴の舞」で、両手を開いて着物を持ち上げている姿と聞いたことがある。そう聞けば踊っているように見える。

以上、5体の彫刻について百花園時代と現在とを比べてみた。「森の歌」はブロンズ像になり、長期間保存できる状態になった。

一方「母と子の像」以下4体のコンクリート彫刻は、ボランティアの力で何とか良好な状態に維持されている。しかし、経年劣化は避けられない。

5年毎にパーマシールドによる補修作業をするとして、何時まで持つのだろうか。彫刻が先か私が先か、つい考えてしまう。

山内壮夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア』 2012年12月14日版

山内 壮夫(やまうち たけお、1907年(明治40年)8月12日 - 1975年(昭和50年)4月11日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。郷里である北海道をはじめ、日本各地に多くの野外彫刻が設置されている。

山内壮夫の来歴

1907年、北海道岩見沢市に誕生。
1925年、東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)工芸彫刻部に入学。
1932年、国展にて国画奨学賞を受賞。
1933年、国画会会友となる。

1936年、本郷新、明田川孝、柳原義達ら国画会彫刻部有志と造型彫刻家協会を結成、後に佐藤忠良、舟越保武らも参加。
1937年、国画会同人となる。

1939年、国画会を脱会し、本郷新、明田川孝、吉田芳夫、舟越保武、佐藤忠良、柳原義達とともに新制作派協会(現・新制作協会)彫刻部の創設に参加。以後、同会を舞台に活躍。

1945年、北海道札幌市へ戦時疎開(1950年まで)。
1970年、中原悌二郎賞の選考委員となる。
1973年、新制作協会運営委員長に就任。
1975年、病のため東京都大田区の病院にて死去。

山内壮夫の作品

労農運動犠牲者の碑(1949年月寒公園)

よいこつよいこ(1952年円山動物園前)
浮遊(1952年旭川市両神橋)
三人(1954年旭川市大雪アリーナ)

母子像(1955年長崎市長崎国際文化会館)

家族(1955年旭川市忠別橋)
風の中の母子像(1955年旭川市新成橋)

宇部産業祈念像(1956年宇部市)

希望(1957年札幌市民会館前)
隼の碑(1957年旭川市新成橋)

家族(1958年新潟市新潟市庁舎)

春風にうたう(1958年札幌市)

森の歌(1959年中島公園)
笛を吹く少女(1959年中島公園)
母と子の像(1959年中島公園)
猫とハーモニカ(1961年中島公園)
鶴の舞(1961年中島公園)

大地(1964年、本郷新、佐藤忠良とともに共同制作、札幌市北海道銀行本店)
鶴の舞(1966年旭川市花咲大橋)

新潟県戦没者慰霊碑(1967年設置新潟市)
新潟震災復興記念碑(1967年設置新潟市)

山鼻屯田兵の像(1967年山鼻日の出公園)

羽ばたき(1970年設置、道開拓記念館)
隼の碑(1970年旭川市花咲大橋)
花の母子像「愛」(1971年札幌市)

飛翔(1972年札幌オリンピック記念モニュメントとして制作、五輪大橋)

風の中の母子像(1986年設置、新成橋)
風の中の母子像(旭川市、北海道療育園)
子を守る母たち(旭川市、北海道療育園)
子を守る母たちI(1973年設置、北海道立近代美術館)
子を守る母たちII(札幌市)

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2013年01月14日

行啓通のポプラ並木

失われた景観 〜行啓通のポプラ並木〜

中島公園でこの10年間、一番激しく変化した風景と言えばポプラ並木。
地下鉄幌平橋駅から西に続くポプラ並木は2004年の台風第18号で倒壊した。
ポプラはいくらか残ってはいるが、もはや並木とは言えない。 

今となっては想い出のポプラ並木


2004年9月8日、この景観が一気に消失した。台風第18号で倒壊したのだ。
二度と見ることの出来ない風景だから残して置きたいと思った。今となっては想い出のポプラ並木である。 
2001.11.3(撮影年月日、以下略)


地下鉄を降りて階段を上ると、そこは緑あふれる森のようだった。
一番出口を出て左に行けば中島公園、右に進めば札幌の母なる川:豊平川がある。
幌平橋駅周辺にはコンビにもラーメン屋もない。あるのは水と緑だけ、地下鉄駅周辺としては珍しいと思う。  2002.9.7


2001年9月に札幌市郊外より中島公園近くに転居した。最寄り駅は地下鉄幌平橋駅。 
駅前のポプラ並木の天を突くような姿に圧倒された。
これまで数え切れないほど転居してきたが、ここに来て好かったと思った。 2002.12.26


住居から幌平橋駅まで徒歩5分、鴨々川を渡るとポプラ並木がある。 
公園沿いの曲線のある道路は碁盤の目のような札幌では珍しい。 
お気に入りのポプラ並木が徐々に黄緑色を増し春の到来を告げる。 
ここが気に入り、中島公園に関するホームページを開設することにした。 2003.1.11


青空に向かってそそり立つようなポプラ並木が好きだった。しかし、この並木と歩めたのもたった3年間。 
転居して3年後の2004年9月に8日には、台風でポプラ並木は倒壊した。 
写真として残せたのがせめてもの慰めだ。 2003.1.26


地下鉄幌平橋駅に向かう園路。 春はクロッカスが咲き若葉が茂る。
夏は深緑、秋は紅葉、そして冬は雪景色など、四季の変化が楽しめる。 2003.1.26


遠くから見ると細長いポプラも近くに寄って見ると太くて堂々としている。 
実際、2002年10月2日の台風第21号ではヤナギがかなり倒れたが、行啓通のポプラ並木は倒木をまぬかれた。 
2003.10.25


この辺りを流れる鴨々川は、下流の中島公園や薄野に比べると自然を感じさせる。 
この川は地下鉄幌平橋駅の直ぐ裏を流れている。 緑豊かで川の流れる幌平橋駅は水と緑の駅と言えよう。 
中島公園の北は中島公園駅、盛り場薄野に続く駅だが、南の幌平橋駅は自然が豊かな駅。
中でもポプラ並木が映えている。 2003.10.25


春になってもポプラに葉が付くのは遅い。 後から考えれば、この風景も見納めだった。 
この年の9月8日、この並木は倒壊した。 2004.4.5


毎年春一番に咲くのがクロッカス。 大きな木々の間一面に咲くクロッカスは春を告げる可愛い花。 
大木との対象が好かったが、この辺りの風景も、この秋に来た台風で大きく変わった。 2004.4.14


ポプラにもようやく葉が付き始めた。この道を通って幌平橋駅に行く道が好きだった。
今でも好きだが昔ほどでもない。 かなり緑が減ったからだ。 緑豊かなこの道が好きだった。
冬になっても緑の面影は心に残っている。 2004.5.12


この写真が、かってのこんもりとした緑の中にある幌平橋駅の撮り納めとなった。 
この後に台風第18号に襲われてポプラ並木を始め多くの木々を失った。 
そして、幌平橋駅周辺の景観は大きく変わってしまった。 2004.6.6

2004年9月8日 台風第18号の爪跡(幌平橋駅周辺)

台風は来ないといわれた北海道なのに大きな被害をもたらした台風第18号だった。 
その爪跡を最悪の状態で残したのは、ポプラ並木を中心とした地下鉄幌平橋駅界隈だろう。
この辺りの風景は2004年9月8日を境に様変わりした。 


ここは行啓通。 木の陰に幌平橋駅の出入り口が見える。倒壊したポプラ並木が痛々しい。 
まるで戦災に遭ったようだ。幌平橋の向こうに見える豊平区のビルが別世界のように感じた。2004.9.9


同じ場所を道路の反対側から見ると木々の倒木状態が分かる。 
台風の翌日に撮ったが、当日は倒れたポプラが一時道路に横たわっていた。 2004.9.9


左に幌平橋駅駐輪場。木々の撤去作業が進行中。 2004.9.9


ポプラ並木は一気に消失。残った切り株が寂しい。 2004.9.20


台風1週間後、倒木が片付けられ被害の形が見えて来た。 2004.9.15


台風以前は鬱蒼とした緑の中にあった地下鉄出入口。 すいぶん明るくなったものだ。 
向きを変えれば藻岩山もハッキリ見える。 2004.9.20


台風1ヶ月後の地下鉄幌平橋駅エレベーター出入口。かっては水と緑の地下鉄駅だったが、ずいぶん荒れてしまった。
災害は景観を一気に崩すから怖い。修復するのはかなり先のことだろう。 2004.10.8

「STVどさんこワイド 台風18号の猛威」に写真提供

9月8日の台風直後の中島公園の惨状を載せた当サイトの写真が、STV記者の目にとまり番組に協力することになった。


STVどさんこワイド年末特別番組「 台風18号の猛威」からコメントを求められた。 
もちろん、台風の爪跡をハッキリと残しているのはポプラ並木の倒壊現場。 
そこで撮影者としての簡単な感想を話した。 2004.12.30


どさんこワイドで12月30日に放映された画像。在りし日のポプラ並木。


古い話なので忘れたが、その他3枚くらい放映されたと思う。


こんなに沢山の木々が倒れたのは中島公園始まって以来ではないだろうか。これから調べてみたいと考えている。 
実際に見た感じでは幌平橋駅周辺の被害が一番大きい。 
次回の「失われた景観」では中島公園全体についの爪跡を更に詳しく見て行きたいと思っている。 

中島公園全体の台風被害概略はこちらをクリック → 台風第18号の爪跡


私が大好きだったポプラ並木

2004年の台風第18号で景観が一番大きく変わったのは何処だろう。
私は地下鉄幌平橋駅付近と思う。
駅の西側には大好きなポプラ並木があったが2004年に襲った台風第18号で倒壊してしまった。
(各画像説明文末は撮影年月日)

2001年 中島公園付近に転居


背の高いポプラ並木は行啓通の両側にあった。 
並木は幌平橋駅付近なら何処にいても見えた。 
地下鉄幌平橋駅に向かう園路からはこんな風に見える。 2001.10.14


鴨々川水遊び場からはこんな風に見える。緑のある風景はそれだけでも癒される。 
しかし、緑一色では方向感覚を失うこともある。 
背が高く特徴あるポプラ並木はランドマークの役目も果たしてくれていた。 2001.10.14


雪景色にも映えるポプラ並木。2001.12.5

2002年 個人宛「中島公園便り」


この日は大雪これも北国の現実。 美しい雪景色だが生活を脅かす。 2002.1.1

東京の親戚に近況報告を兼ねて「中島公園便り」を月1回郵送することにした。 
大好きな中島公園を知ってもらおうと思い、画像に説明文を付けて新聞のような体裁にした。


画像の右下が地下鉄幌平橋駅。 当時は木々に囲まれた駅だった。 2002.3.20


幌平橋駅を幌平橋から望む。行啓通の両側にポプラ並木があった。 2002.4.19


地下鉄を降りて階段を上ると、そこは緑が溢れた世界だった。 2002.9.7


幌平橋から見た行啓通。 2002.9.7

2003年 3月25日「「中島パフェ」開設


幌平橋駅エレベーター出入口の、直ぐそばに鴨々川が流れる。 
小さくて見えにくいがマガモが数羽泳いでいる。 2003.4.3

東京の親戚にA4一枚の新聞体裁「中島公園便り」を送ったら、けっこう喜んでもらえた。 
ご近所へのアッピールも兼ねてホームページ「中島パフェ」を開設した。


駅前交差点横断歩道。 その右は幌平橋駅1番出入口。左は2番出入口。 2003.4.22


行啓通、ポプラ以外には若葉が茂り、正面に桜並木が見える。 2003.5.3


幌平橋駅前の小さな広場。 2003.5.12


水と緑に恵まれた幌平橋駅界隈。 鴨々川と行啓通。 
この画像では分からないが、左側は川に挟まれた中島。
この川の左に鴨々川水遊び場がある。 2003.5.12


中島公園周辺の道路は曲線が多い。碁盤の目が特徴の札幌では珍しい。
曲線のある街は自然が残された街である。 2003.7.29


駅を出ると緑がいっぱい。 2003.7.29


幌平橋駅からまっすぐ進むと行啓通歩道。
右に曲がると札幌コンサートホール・キタラ方面への園路。 2003.7.29


この辺りの鴨々川には自然が残っている。
下流に行くに従い人工的に。 2003.7.29


幌平橋駅駐輪場。 2003.1025


2週間後の同じ場所。 2003.11.7


近くで見ればポプラも丈夫そう。2003.11.7


地下鉄駅への道は緑豊か。 2003.11.7


約1ヶ月後には葉も落ちた。 2003.12.1

2004年 この年の9月8日に台風


冬のポプラもこれでお仕舞い。 この年の9月、台風で倒壊する。 2004.2.5


まさか、このポプラ並木が倒壊するとは思わなかった。 
背が高い割りに細いからだろうか。 
ある程度の高さで剪定したら大丈夫だったかな? いろいろ考える。 2004.3.7


幌平橋駅は何もない駅、あるのは水と緑。それに野鳥。 
そんな風景が好きだったが、かなりの緑を台風で失うことになる。 
まさか、こんな台風が来るとは…。 2004.3.7


かってポプラを背にして幌平橋駅1番出入口があった。 2004.3.20


台風は、この辺りの景観を大きく変えた。 最初は驚くが、だんだん慣れてくる。 
そしてポプラ並木のあったことを知らない住民も増えてくる。 2004.3.20


台風が襲う半年前の幌平橋駅前風景。 
曖昧な記憶だけでなく写真を撮っておいて好かったと思う。 2004.4.5


行啓通の歩道と中島公園の園路がここで合流する。 
雰囲気のある通勤・通学路。 ポプラ並木の終点は幌平橋駅。 2004.4.10


育つのに百年? 倒壊は一瞬。2004.5.12


2005年1月23日 初めてテレビに出た。 ほんのちょっとだけ。
番組はは「STVどさんこワイド台風18号の猛威」。年末放映の特別番組である。

今なお台風18号の爪痕を残しているところはどこかと探したら、地下鉄幌平橋駅前のポプラ並木にたどり着いた。。

念のため、他に傷跡を残している所はないかと公園中、探しまわったが、やはり特別に目立つ所はない。 

被害を受けた場所は沢山あるが、いったん片付けてしまうと、それが新しい景色になり、被害の程度は分からなくなってしまう。
だから、在りし日のポプラ並木の姿をウェブ上に残したいと思った。

posted by nakapa at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 失われた景観