2012年06月22日

明治・大正の岡田花園

優雅な岡田花園の痕跡は天文台だけだろうか。他にも何かある筈だ。

明治・大正時代の痕跡 岡田花園の岡田山


札幌市天文台は小高い築山の上にあり、岡田山と呼ぶ人もいる。
「これが山?」と不思議に思っていたが、岡田花園があったころは少し高かったようだ。

岡田山はもっと高かった

2011年秋に開催された「資産と活用を考えるシンポジュウム」に於ける講演で、
コメンテーターの笠先生は次のように話された。
「…越後から来た岡田左助が、池と水をうまく使った遊園である岡田花園を造っております。
明治42年(1909年)に新渡戸稲造夫妻が来札した時に(当時帝国大学になっておりますが)、
宮部金吾ら札幌農学校の同級生たちが集まって写真を写しております。

実はこれが『岡田山』で岡田花園にあった築山です。これが今では上に天文台が乗っかっていて、
こんなに高い山だったのかとビックリしておりますが、どうも天文台を建てる時に頭を少し低くしたようです」


岡田花園、この山が当時の岡田山だろうか? 札幌市公文書館所蔵

文中の「こちら」をクリックすれば別の写真がある

こんなに高かったのかとビックリした岡田山の写真は、シンポジウム報告書9ページに載っている。
興味ある方ば、こちらをクリックすれば報告書が表示され、そこからたどることができる。

山麓から山頂まで賑った2012年5月21日 日食の朝

「5月21日の金環日食の朝は岡田山が人でいっぱいになりましたね」

「岡田山?」
「天文台のあるあの山ですよ」
「あれでも山か。階段20でテッペンだぞ」
「岡田花園にあったから岡田山なのです」
「岡田花園? 聞いたことないぞ」
「明治22年から大正時代までありましたよ」
「ずいぶん古い話じゃないか。
今で言えばどのあたりかな?」
「日本庭園からキタラあたりまでの広がりがありました。中島公園の西側部分ですね」

1889年から1926年まで存在した岡田花園


池と水をうまく使った岡田花園 札幌市文化資料室所蔵

岡田花園は1889(明治22)年から1926(大正15)年くらいまで存在したが、
はっきりと痕跡を残しているのは天文台くらいだろう。 
岡田山は池を造ったときに出た土を盛って造ったと聞いたことがある。 

岡田花園エリアは、現在の中島公園で言うと日本庭園から豊平館、天文台、
札幌コンサートホール Kitaraあたりと思う。
そして岡田花園は今は住宅地になっている鴨々川のの西側まで広がっていたようだ。

岡田花園の跡地利用は「子供の国」から始まった

園内にあった築山は岡田山と名付けられ、現在は頂上に天文台がある。
「岡田花園が閉園したのは1926年、そして天文台の開館が1958年。その間32年もあるが、どうしていたのだろう」
「近くに『子供の国』が出来たので、岡田山も子供たちの遊び場になっていたと思います」
「今でも天文台スロープで遊んでるな。冬はソリとかスキーとか」

「1926年に国産振興博覧会があり、このとき初代『子供の国』を造ったそうです」
「初代というと次もあったのか?」
「次は1958年の北海道大博覧会で、本格的な『子供の国』になったのです。
そして1995年に円山動物園に移設されました」」


1958年大博覧会での雪印マークを付けた天文台 画像は某所より入手

整理すると1889年岡田花園開園、1926年岡田花園閉園、その跡地南側部分に「子供の国」が造られた。 
そして1958年の北海道大博覧会でも子供の国が作られ、博覧会終了後、札幌振興公社がその運営を引き継いだ。


「子供の国」1958年〜1994年 札幌市公文書館所蔵

そして1997年ほぼ同じ場所に札幌コンサートホールKitaraオープン。
この部分には岡田花園を偲ばせる痕跡はないような気がするが、どうだろうか?

豊平館や日本庭園が出来るまでの跡地利用?

豊平館(1958年移築)や日本庭園(1963年完成)が出来るまでの跡地利用は、どうだったろうか。 
このあたりはよく分からないが「さっぽろ文庫84・中島公園」に、日本庭園についたて次の様な記述がある。

「1955年頃は建築用の樹木を育てる苗圃(びょうほ)があり、花壇に囲まれた相撲の土俵もあった。
当時の未開発地域だったわけで、ここに市民の憩いの場として大規模な日本庭園を造ることにしたのは原田興作市長だった」 

1961年、庭園造成工事が始まり2年かけて完成。 
日本古来の名園を参考に、池の護岸もセメントを使わず石と丸太で組まれている。 
12基の石灯籠は京都の老舗石屋により作られた。
日本庭園は冬季間閉鎖されているが、春のシダレサクラ、秋の紅葉が美しい。

『中島公園百年』には、「池の西端の突出部分は、元は岡田花園内の池であった。
太鼓橋はその名残である。 豊平館、八窓庵は岡田花園の跡地利用にほかならない」と書いてある。 


菖蒲池と豊平館前の池の間に架かる太鼓橋 画像は某所より入手

下のカラー画像は豊平館側から撮ったものだが、位置的に見て太鼓橋に替えて架けられた現在の橋と思う。 


画像の池と岡田花園にあった池との関係はよく分からない。これから調べなければならないことが山ほどある。 
努力も必要だが発見する楽しみもあるだろうと前向きに捉えている。調べていても楽しみいっぱいの中島公園である。

完全に消えた「子供の国」

札幌圏の多くの施設は中島公園を故郷としている。 
かって中島公園にあった施設が、札幌圏に分散しているのだ。

中島競馬場は桑園の札幌競馬場へ、
中島スポーツセンターは豊平公園の北海道立総合体育センター「きたえーる」へ、
冬のスポーツ博物館は大倉山ジャンプ競技場の「札幌ウィンタースポーツミュージアム」へ、
その他いろいろな施設が札幌あるいは近郊の都市へと引っ越して行った。

そして、行くたびかの変遷を重ねて消滅した施設もある。その代表が「子供の国」だ。


子供の国1958-94 札幌市公文書館所蔵

1926年、岡田花園の跡地で開園された
「子供の国」は三たび形を変え2010年、
「円山子供の国キッドランド」として、
84年に及ぶ長い歴史に終止符を打った。

1958年に開園した二代目「子供の国」は、1994年に閉鎖。
その後円山動物園に移転。1995年4月に営業再開。
子供たちの人気を集めたが遊具老朽化の為、2010年9月に閉鎖した。


岡田花園以下、札幌市公文書館所蔵

ここに札幌市公文書館所蔵の写真、絵はがき等の内、岡田花園に関する画像を掲載したつもりだが、
資料室閉鎖の為、日付、場所等の確認が取れなくなってしまった。 

なお、札幌市公文書館所蔵は2013年3月にリニューアル・オープンの予定。 


昔の岡田花園は、なかなか優雅な感じがを漂わせている。右側に日傘をさす女性。
大正時代の絵葉書かな?


同じ場所の違う一枚は落ち着いた風情。


フラワーパークだったそうだが、写真は池のばかりしか見つけられなかった。 
花園のも欲しいところだ。今の中島公園でいえば日本庭園からキタラにかけて広がるエリア。 
池ばかりでなく多様な風景があったと思う。


写真を見ると、どれにも人が配置されている。しかも絵になるように配置されている。

立ったり座ったりしているが、写真を撮ることを意識している姿に見える。昔の写真では人も置物の一つかな?

以上の写真は札幌市公文書館所蔵


管理人nakapaのたわ言

「日本庭園からキタラまで、あれだけ広大なエリアなのに、岡田山にしか痕跡がないのは寂しいですね」
「造っては壊しているからだよ」
「キタラの前が北海道大博覧会の『子供の国』でしょう。 その前が国産振興博覧会で造った初代『子供の国』です。 
 そして、その前が岡田花園ですからね」

「釣堀や相撲の土俵もあったらしいよ」
「池の西端の突出部分や太鼓橋の痕跡が何処かに残っていると思います」
「太鼓橋の代わりの橋だってあるはずだ」
「池だって何処かに痕跡があると思います」

「当時の木だってあるだろう」
「石も土もありますよ」
「水も空気もあるよな」
「太陽も月もね」
「こりゃ〜豪勢、沢山あるじゃないか」
「星の数ほどねっ!」

タグ:天文台
posted by nakapa at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 資産活用

明治時代の中島競馬場

札幌の歴史は中島公園の変遷をたどれば分かる。こう考えて歴史の勉強を始めてみたが早くも躓いた。
皆様に読んでもらうことは諦めて更新しながら勉強を続けたいと、今では思っている。
ともかく続けることにした。

初めてのスポーツ施設は中島競馬場(20年存続)


中島公園内の園路でここだけが直線。 白鶴橋こそ中島競馬場の名残。

中島公園の資産と活用を考えるシンポジウムは笠先生の「中島公園が有する歴史的・文化的資産」の講演から始まった。印象に残ったのは中島競馬場の話。「中島公園に競馬場があったのか」という驚きがあるからだ。


中島競馬場(1887年〜1907年)   札幌市文化資料室所蔵

「当時道庁の北にあった競馬場を中島に移設致したのもダンの手によるものです」と笠先生。 
ダンとはエドウィン・ダン、開拓使に雇用され、北海道における畜産業の発展に大きく貢献した明治期のお雇い外国人。

「当時の札幌区が、東京市の造園技術長であった長岡安平に円山と中島の造園計画を、
大通逍遥地には植栽設計を依頼して3つ共図面を描いております。
その時の現況図というものが残っております。
これを見るとまだ競馬場があり、馬場が鴨々川を2回渡っておりますので、
これが現在の白鶴橋と南14条橋になるのではと推測しています」
(『ランドスケープシンポジウム2011報告書 2.第1部』より)

さっぽろ文庫『中島公園』に載っている1892年ころの中島遊園地(現中島公園)のイラストには競馬場がある。 
それを参考に現在の中島公園に重ねて描いてみたのが下のマップである。

「南14条橋の位置が今と違うのではないか」
「当時は道幅が狭く、きちんと整備され道路ではなかったのです」
「今の行啓通の南に馬場があったようだね」
「橋の位置を思いっきり下げてみました。南へですね」

明治時代の馬場を今の中島公園で一回り

当時の馬になったつもりで、地図上の約1kmを歩いてみることにした。
中島体育センターと藻岩山が見える位置から弥彦神社へ、右折して南14条橋、
ぐるっと回って白鶴橋、自由広場の西側園路、芝生の広場をぐるっと回って文学館、
そしてスタート地点に帰り一周である。


現在の中島体育センター辺りを中心とした右回りコースと推定。

文献によると、札幌の競馬場馬場は右回り、左回り、右回りと変化しているが、
中島競馬場の馬場は右回りと書かれている。 


弥彦神社辺りで右に回る。
競馬場は1907年廃止され、その後1912年に弥彦神社が建立された。


右折後、南向きコースで橋を渡る。 画像は現在の南14条橋。

「直進して回る所で鴨々川にかかるので橋を架けました」
「一見して橋の向きが違うよ」
「明治時代の話です。道幅は狭いし、今の行啓通とは全く違います」
「なるほど、荷馬車が通れれば充分だからな」
「はっきりしていることは、馬場には橋が2ヶ所あったことです」


西澤果樹園(現在は護国神社がある)辺りを右回りして直線コースへ。

この辺までが馬場。ここで反転し直線コースに入る。


護国神社を出た位置、行啓通をわたり直線コースでキタラ方面へ。

中島遊園地に競馬場があったのは1907年まで、100年以上前の話。
交通の主役は馬の時代。道路と橋は今とは全く違うし、競馬の役割も違う。
ここからは直線。馬が思いっきりスピードを上げて走れるコース。


直線コースで白鶴橋を渡り、更に直進する。 現在のキタラは左側

「護国神社を出てから突き当たるまで300mくらいあります」
「それで?」
「122年前の馬場の直線コースが、ここに残っているのです」
「なるほど」
「ここに『中島競馬場跡』と記念碑を立てて下さい」
「ものを頼むなら、先ず役職と略歴を言え」
「無職、中島公園近所の住民です。11年住んでますよ」
「よ〜く分った。前向きに検討しよう。前向きにな、意味わかるだろう?」


馬場は右に回り芝生の広場へ。 左は札幌コンサートホール・キタラ。


ここで右に大きく回り、文学館方面にに向う。

1918年、開道50年北海道博覧会が開かれたとき、園芸館、水産館、林業及鉱業館、
その他各地の展示施設などが所狭しと建った場所。
1958年には北海道大博覧会が開催され、その跡地に百花園が誕生した。 
今は撤去されて緑のオープンスペースになっている。


文学館辺りから直線コースに入り、これが最終コース。


弥彦神社方面への直線コース。昔野球場やスポーツセンタがあった広場。


中島体育センターを中心に右回りのコースは、これで一周。

1987年 物産陳列場の裏手に馬場が造成された


1906年、北海道物産陳列場の増改築完成。  札幌市文化資料室所蔵

中島公園は遊園地として発足当時から博覧会とともに歩んできた。
最初に開かれたのが「北海道物産共進会」。1987に開催された。
競馬場の北側に永久館として建てられたのが、「北海道物産陳列場」である。


一生懸命書いていますが素人です。

競馬のことも明治時代の中島公園のことも、よく知りません。 
一生懸命調べて書きましたが、間違いも説明不足もあると思います。
これから、勉強するつもりです。 ご指導のほどよろしくお願い致します。


博覧会の絵葉書 札幌市文化資料室所蔵

中島公園のウェブサイト「中島パフェ」を運営して9年になりますが、
ようやく、この公園の魅力が、その歴史にあることに気付きました。

中島公園の魅力を紹介するには、その歴史は欠かすことのできないものと考えるようになったのです。 
しかし、居住経験も11年と短いし充分な知識もありません。

知識・経験が充足するのを待っていては、いつサイトに掲載できるかメドが立ちません。 
と言うことで見切り発車することにしました。つまり、勉強しながらサイトを更新することにしたのです。

中島公園の歴史は、札幌の歴史そのものと言われています。
この公園には多くの歴史的資産が埋もれているのです。

歴史的資産を一つひとつ掘り起こし、中島公園の魅力として伝えたいと思っています。

事実を伝えると言うよりも、問題提起のつもりで書いています。 
なにぶん知識も経験も不十分です。皆様のご指摘、ご意見をお待ちしています。

ご 注 意

出来るだけ調べて書いていますが、推測も含まれています。「 」内の会話体は自由に書いています。
否定している自分と、肯定している自分との、一人二役の会話です。 
疑問点も感じたまま書いています。

経験はないので全ては伝聞です。 
正確には「こう書いてある」「この様だ」となることも断定している場合もあります。

人様の話でも、まるで自分が知っているような顔をして、一人称で書くこともあります。 
その方が、読み易いと思ったときは、そうしています。人様の話を横取りしているようで申し訳ありません。

競馬場おもいつくままエピソード

札幌競馬のルーツ

札幌競馬は1872年琴似街道の路上で行われたのが始まり。

その後1877年には現北大キャンパス内の位置に楕円形の半マイル馬場を造成、春秋2回のレースが開催された。

中島競馬場開始1

中島公園遊園地設営の機会に物産陳列場の裏手に競馬場を建設した。

競馬場は南方と西方において鴨々川を渡るようにつくられ、その距離は550間
(約1000m)の馬場になった。

当時5ハロンを築造、馬見所も建設した。
中島競馬場完成により、山鼻屯田兵の競馬熱は一層高まった。

8月2,3の両日屯田兵招魂祭偕楽園内で行われた際、札幌競馬は中島遊園地で行われ人寄せに役立った。
山崎長吉『中島公園百年』

中島競馬場開始2

競馬場の開設は明治20年(1887年)にさかのぼるが、それ以前開拓史時代に路上競馬が行われ大通で競馬をしたり、偕楽園近くに競馬場が設けられたこともあった。 

しかし、馬場の広さと人寄せを考えると中島公園が最適として、馬場造成にに踏み切った馬場は南側の一部が鴨々川にかかることから架橋もした。
さっぽろ文庫84『中島公園』

馬場と行啓通

馬は行啓通を2回突っ切って走る。 行啓通の正式名は南14条中央線で幌平橋の手前から西20丁目線まで。

1881年明治天皇、1911年当時皇太子であった大正天皇が行啓された。行啓とは簡単に言うと皇族の外出の敬称である。

中島競馬場は20年間存続

1887年、競馬場は中島遊園地(現中島公園)に移転、遊園地南側に鴨々川を跨ぐ形に馬場が設置された。

今の中島公園で言えば白鶴橋と南14条橋を渡る形で馬場が設定されている。 

中島競馬場は1907年にに現在地(桑園)に移転した。中島公園には20年存続した。

競馬と屯田兵

中島公園に競馬場が開設され、盛んに競馬が行われており、その名馬、騎手の殆どは山鼻兵村出身だったという。

タグ:競馬場
posted by nakapa at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 資産活用

藻岩山への眺望を活かす

藻岩山への眺望を活かし「池泉回遊式」の庭として設計

中島公園は「お宝」がいっぱい。 そう思って園内を掘り起こすことばかり考えていたら大切なことを忘れていた。
それは藻岩山の景観。これなくしては中島公園を語れない。


中島公園菖蒲池と藻岩山。 札幌パークホテル11階からの眺望。

「中島公園は、1907(明治40)年に長岡安平が中島公園設計方針を提出。
長岡は,清流と藻岩山とその奥に連なる山々の眺めが素晴らしい景勝地が市街地の近くにあることを重要とみなし、
中島公園を池の水景や藻岩山への眺望を活かし,自然の風致を織り込んだ『池泉回遊式』の庭として設計した」
(「ランドスケープシンポジウム2011報告書)

中島公園に初めて来たとき、公園というよりも庭園のような印象があった。
「池泉回遊式」の庭として設計されたと聞いて、なるほどと思い納得した。


1918年開道50年記念博覧会当時の中島公園。 札幌市公文書館所蔵

「回遊式の庭ってなんだ?」
「池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)と言うのです」
「意味を聞いているんだよ」
「室町時代における禅宗寺院や江戸時代においては大名により多く造営された形式で……」
「簡単に言うと?」
「大きな池を中心にして周りに園路を巡らし、池の中には中島を設け橋、名石などで各地の景勝などを再現するのです」
「築山もあったよな」


中島公園日本庭園。木々の陰に国指定重要文化財「八窓庵」。

中島公園は菖蒲池の水景や藻岩山への眺望を活かして造られた。
自然の風致を織り込み「池泉回遊式庭園」として設計れたと言われている。
時の造園技術の第一人者、日本人初の公園デザイナー長岡安平の設計により造園されたものである。

「菖蒲池と鴨々川があり藻岩山の景観があっての中島公園なのです」
「そうかい」
「藻岩山が見えなければ中島公園とは言えません」
「そんなこと誰が決めた」
「藻岩山への眺望を活かして造られたのですから、設計者の意思です」

山が一番美しく見えるのは仰角8度。藻岩山に対する中島公園は、まさにこの位置にある。
菖蒲池北側から池越しに見る藻岩山は絶景である。

残念なことに、十数年前から藻岩山の眺望を隠すように高層ビルが建ち始めている。
今のところ、かろうじて山の形が見える。

「この11年間、高層ビルの建設はありません。中島公園を愛する気持ちが新規建設を抑えているのでしょうか」
「景気が悪いからじゃないか」

何の対策もしなければ、遅かれ早かれ中島公園から藻岩山が見えなくなる時代が来るだろう。
池と川の現状を守ることはたやすいが、藻岩山の景観を守ることは難しい。高さ制限などの規制を伴うからだ。


ビルに隠れた藻岩山。 立ち位置によって隠れ方は異なる。

もし藻岩山の眺望を失えば、造園設計の理念が崩れてしまう。その場合、中島公園の性格もかわるだろう。
気が付いたら藻岩山が見えなくなっていた、と言うことでは困る。当局はどう考えているのだろうか?

30分で140年をさかのぼる小さくて遠い旅

札幌は、190万都市でありながら自然環境にも恵まれ解放的なイメージがある。
モダンな札幌駅前・大通地区から、レトロな狸小路・薄野、
そして藻岩山の観える中島公園までの直線道路は「駅前通」と呼ばれている。


発展著しいJR札幌駅ビル周辺。


すすきのは歓楽街として知られているが、もう一つの顔は寺町である。

薄野の南には川端の柳が(いにしえ)の雰囲気を残す鴨々川が流れている。 

この辺りがお寺の多い落ち着いた感じの街であることは、余り知られていない。

小説『すすきの六条寺町通り』の舞台にもなっている「寺町すすきの」は、
モダンな札幌駅前とは対照的なレトロな街である。

界隈には新善光寺、中央寺、新栄寺、玉宝禅寺、永昭寺、
少し離れて東本願寺がある。そして、中島公園に隣接して、
水天宮、弥彦神社、札幌護国神社、多賀神社などが建っている。

モダンな駅前に対してレトロなすすきの・中島公園地区は、
札幌のもう一つの顔としたい。190万都市の顔は一つではいけない。


南7条3丁目の成田山札幌別院新栄寺。

札幌駅前から真っ直ぐ歩るこう! 新しい街より古い街に向けて歩いてみよう。
それは30分の小さな旅だが、札幌の歴史を遡る(さかのぼる)遠い道のりでもある。
雨が降れば地下通路や地下街に、疲れたら地下鉄にも乗れる。
体調に合わせて歩けるし、直線なので迷うこともない。


厳しい冬にはもってこいの地下歩行空間。 北国では特に便利。

札幌駅から真っ直ぐ歩く駅前通り散歩。横道にそれて歩いても簡単に戻れる。
とても手軽な散歩道である。これを札幌市内観光の目玉にしてほしい。
キャッチコピーは「30分で140年を遡る小さくて遠い旅」。
もちろん駅前散歩の終点は藻岩山であり中島公園である。


4月から大改修、築132年の豊平館。工事完了は4年後の2016年3月。

中島公園の東側には札幌の母なる川と呼ばれる豊平川が流れている。
そこに架かる幌平橋に「ポートランド広場」と名付けられた憩いの場がある。

水面からの高さが20mにもなる展望アー チに上ると滔々と流れる豊平川越しに藻岩山が見える。
これはかなりの絶景である。振り返れば市街地が遠望できる。

中島公園と鴨々川、藻岩山と豊平川、そして市街地。それらを一望できる場所は、この展望アーチ以外にない。
観光資源として活用すべきと思う。

posted by nakapa at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 資産活用