2013年01月14日

行啓通のポプラ並木

失われた景観 〜行啓通のポプラ並木〜

中島公園でこの10年間、一番激しく変化した風景と言えばポプラ並木。
地下鉄幌平橋駅から西に続くポプラ並木は2004年の台風第18号で倒壊した。
ポプラはいくらか残ってはいるが、もはや並木とは言えない。 

今となっては想い出のポプラ並木


2004年9月8日、この景観が一気に消失した。台風第18号で倒壊したのだ。
二度と見ることの出来ない風景だから残して置きたいと思った。今となっては想い出のポプラ並木である。 
2001.11.3(撮影年月日、以下略)


地下鉄を降りて階段を上ると、そこは緑あふれる森のようだった。
一番出口を出て左に行けば中島公園、右に進めば札幌の母なる川:豊平川がある。
幌平橋駅周辺にはコンビにもラーメン屋もない。あるのは水と緑だけ、地下鉄駅周辺としては珍しいと思う。  2002.9.7


2001年9月に札幌市郊外より中島公園近くに転居した。最寄り駅は地下鉄幌平橋駅。 
駅前のポプラ並木の天を突くような姿に圧倒された。
これまで数え切れないほど転居してきたが、ここに来て好かったと思った。 2002.12.26


住居から幌平橋駅まで徒歩5分、鴨々川を渡るとポプラ並木がある。 
公園沿いの曲線のある道路は碁盤の目のような札幌では珍しい。 
お気に入りのポプラ並木が徐々に黄緑色を増し春の到来を告げる。 
ここが気に入り、中島公園に関するホームページを開設することにした。 2003.1.11


青空に向かってそそり立つようなポプラ並木が好きだった。しかし、この並木と歩めたのもたった3年間。 
転居して3年後の2004年9月に8日には、台風でポプラ並木は倒壊した。 
写真として残せたのがせめてもの慰めだ。 2003.1.26


地下鉄幌平橋駅に向かう園路。 春はクロッカスが咲き若葉が茂る。
夏は深緑、秋は紅葉、そして冬は雪景色など、四季の変化が楽しめる。 2003.1.26


遠くから見ると細長いポプラも近くに寄って見ると太くて堂々としている。 
実際、2002年10月2日の台風第21号ではヤナギがかなり倒れたが、行啓通のポプラ並木は倒木をまぬかれた。 
2003.10.25


この辺りを流れる鴨々川は、下流の中島公園や薄野に比べると自然を感じさせる。 
この川は地下鉄幌平橋駅の直ぐ裏を流れている。 緑豊かで川の流れる幌平橋駅は水と緑の駅と言えよう。 
中島公園の北は中島公園駅、盛り場薄野に続く駅だが、南の幌平橋駅は自然が豊かな駅。
中でもポプラ並木が映えている。 2003.10.25


春になってもポプラに葉が付くのは遅い。 後から考えれば、この風景も見納めだった。 
この年の9月8日、この並木は倒壊した。 2004.4.5


毎年春一番に咲くのがクロッカス。 大きな木々の間一面に咲くクロッカスは春を告げる可愛い花。 
大木との対象が好かったが、この辺りの風景も、この秋に来た台風で大きく変わった。 2004.4.14


ポプラにもようやく葉が付き始めた。この道を通って幌平橋駅に行く道が好きだった。
今でも好きだが昔ほどでもない。 かなり緑が減ったからだ。 緑豊かなこの道が好きだった。
冬になっても緑の面影は心に残っている。 2004.5.12


この写真が、かってのこんもりとした緑の中にある幌平橋駅の撮り納めとなった。 
この後に台風第18号に襲われてポプラ並木を始め多くの木々を失った。 
そして、幌平橋駅周辺の景観は大きく変わってしまった。 2004.6.6

2004年9月8日 台風第18号の爪跡(幌平橋駅周辺)

台風は来ないといわれた北海道なのに大きな被害をもたらした台風第18号だった。 
その爪跡を最悪の状態で残したのは、ポプラ並木を中心とした地下鉄幌平橋駅界隈だろう。
この辺りの風景は2004年9月8日を境に様変わりした。 


ここは行啓通。 木の陰に幌平橋駅の出入り口が見える。倒壊したポプラ並木が痛々しい。 
まるで戦災に遭ったようだ。幌平橋の向こうに見える豊平区のビルが別世界のように感じた。2004.9.9


同じ場所を道路の反対側から見ると木々の倒木状態が分かる。 
台風の翌日に撮ったが、当日は倒れたポプラが一時道路に横たわっていた。 2004.9.9


左に幌平橋駅駐輪場。木々の撤去作業が進行中。 2004.9.9


ポプラ並木は一気に消失。残った切り株が寂しい。 2004.9.20


台風1週間後、倒木が片付けられ被害の形が見えて来た。 2004.9.15


台風以前は鬱蒼とした緑の中にあった地下鉄出入口。 すいぶん明るくなったものだ。 
向きを変えれば藻岩山もハッキリ見える。 2004.9.20


台風1ヶ月後の地下鉄幌平橋駅エレベーター出入口。かっては水と緑の地下鉄駅だったが、ずいぶん荒れてしまった。
災害は景観を一気に崩すから怖い。修復するのはかなり先のことだろう。 2004.10.8

「STVどさんこワイド 台風18号の猛威」に写真提供

9月8日の台風直後の中島公園の惨状を載せた当サイトの写真が、STV記者の目にとまり番組に協力することになった。


STVどさんこワイド年末特別番組「 台風18号の猛威」からコメントを求められた。 
もちろん、台風の爪跡をハッキリと残しているのはポプラ並木の倒壊現場。 
そこで撮影者としての簡単な感想を話した。 2004.12.30


どさんこワイドで12月30日に放映された画像。在りし日のポプラ並木。


古い話なので忘れたが、その他3枚くらい放映されたと思う。


こんなに沢山の木々が倒れたのは中島公園始まって以来ではないだろうか。これから調べてみたいと考えている。 
実際に見た感じでは幌平橋駅周辺の被害が一番大きい。 
次回の「失われた景観」では中島公園全体についの爪跡を更に詳しく見て行きたいと思っている。 

中島公園全体の台風被害概略はこちらをクリック → 台風第18号の爪跡


私が大好きだったポプラ並木

2004年の台風第18号で景観が一番大きく変わったのは何処だろう。
私は地下鉄幌平橋駅付近と思う。
駅の西側には大好きなポプラ並木があったが2004年に襲った台風第18号で倒壊してしまった。
(各画像説明文末は撮影年月日)

2001年 中島公園付近に転居


背の高いポプラ並木は行啓通の両側にあった。 
並木は幌平橋駅付近なら何処にいても見えた。 
地下鉄幌平橋駅に向かう園路からはこんな風に見える。 2001.10.14


鴨々川水遊び場からはこんな風に見える。緑のある風景はそれだけでも癒される。 
しかし、緑一色では方向感覚を失うこともある。 
背が高く特徴あるポプラ並木はランドマークの役目も果たしてくれていた。 2001.10.14


雪景色にも映えるポプラ並木。2001.12.5

2002年 個人宛「中島公園便り」


この日は大雪これも北国の現実。 美しい雪景色だが生活を脅かす。 2002.1.1

東京の親戚に近況報告を兼ねて「中島公園便り」を月1回郵送することにした。 
大好きな中島公園を知ってもらおうと思い、画像に説明文を付けて新聞のような体裁にした。


画像の右下が地下鉄幌平橋駅。 当時は木々に囲まれた駅だった。 2002.3.20


幌平橋駅を幌平橋から望む。行啓通の両側にポプラ並木があった。 2002.4.19


地下鉄を降りて階段を上ると、そこは緑が溢れた世界だった。 2002.9.7


幌平橋から見た行啓通。 2002.9.7

2003年 3月25日「「中島パフェ」開設


幌平橋駅エレベーター出入口の、直ぐそばに鴨々川が流れる。 
小さくて見えにくいがマガモが数羽泳いでいる。 2003.4.3

東京の親戚にA4一枚の新聞体裁「中島公園便り」を送ったら、けっこう喜んでもらえた。 
ご近所へのアッピールも兼ねてホームページ「中島パフェ」を開設した。


駅前交差点横断歩道。 その右は幌平橋駅1番出入口。左は2番出入口。 2003.4.22


行啓通、ポプラ以外には若葉が茂り、正面に桜並木が見える。 2003.5.3


幌平橋駅前の小さな広場。 2003.5.12


水と緑に恵まれた幌平橋駅界隈。 鴨々川と行啓通。 
この画像では分からないが、左側は川に挟まれた中島。
この川の左に鴨々川水遊び場がある。 2003.5.12


中島公園周辺の道路は曲線が多い。碁盤の目が特徴の札幌では珍しい。
曲線のある街は自然が残された街である。 2003.7.29


駅を出ると緑がいっぱい。 2003.7.29


幌平橋駅からまっすぐ進むと行啓通歩道。
右に曲がると札幌コンサートホール・キタラ方面への園路。 2003.7.29


この辺りの鴨々川には自然が残っている。
下流に行くに従い人工的に。 2003.7.29


幌平橋駅駐輪場。 2003.1025


2週間後の同じ場所。 2003.11.7


近くで見ればポプラも丈夫そう。2003.11.7


地下鉄駅への道は緑豊か。 2003.11.7


約1ヶ月後には葉も落ちた。 2003.12.1

2004年 この年の9月8日に台風


冬のポプラもこれでお仕舞い。 この年の9月、台風で倒壊する。 2004.2.5


まさか、このポプラ並木が倒壊するとは思わなかった。 
背が高い割りに細いからだろうか。 
ある程度の高さで剪定したら大丈夫だったかな? いろいろ考える。 2004.3.7


幌平橋駅は何もない駅、あるのは水と緑。それに野鳥。 
そんな風景が好きだったが、かなりの緑を台風で失うことになる。 
まさか、こんな台風が来るとは…。 2004.3.7


かってポプラを背にして幌平橋駅1番出入口があった。 2004.3.20


台風は、この辺りの景観を大きく変えた。 最初は驚くが、だんだん慣れてくる。 
そしてポプラ並木のあったことを知らない住民も増えてくる。 2004.3.20


台風が襲う半年前の幌平橋駅前風景。 
曖昧な記憶だけでなく写真を撮っておいて好かったと思う。 2004.4.5


行啓通の歩道と中島公園の園路がここで合流する。 
雰囲気のある通勤・通学路。 ポプラ並木の終点は幌平橋駅。 2004.4.10


育つのに百年? 倒壊は一瞬。2004.5.12


2005年1月23日 初めてテレビに出た。 ほんのちょっとだけ。
番組はは「STVどさんこワイド台風18号の猛威」。年末放映の特別番組である。

今なお台風18号の爪痕を残しているところはどこかと探したら、地下鉄幌平橋駅前のポプラ並木にたどり着いた。。

念のため、他に傷跡を残している所はないかと公園中、探しまわったが、やはり特別に目立つ所はない。 

被害を受けた場所は沢山あるが、いったん片付けてしまうと、それが新しい景色になり、被害の程度は分からなくなってしまう。
だから、在りし日のポプラ並木の姿をウェブ上に残したいと思った。

posted by nakapa at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 失われた景観

2012年11月15日

鴨々川ヤナギ並木

1975(昭和50)年ころの鴨々川沿いのヤナギ並木

失われた景観シリーズも3回目を迎え、テーマは何にしようかと迷っていた。ところが、偶然の機会に恵まれた。  
おあつらえ向きの写真を桜本商店様から提供してもらえたのだ。 これで決まった、テーマは「鴨々川ヤナギ並木」と。


1975(昭和50)年頃の鴨々川沿い散歩道。写真は丸市桜本商店所蔵。

札幌で一、二といわれたシダレヤナギの街路樹が……


上の画像にあるようなヤナギ並木は、この画像にあるように危険木として伐採され、台風で倒れたりして大半を失っている。これも歴史、悲しいヒストリー。

ヒストリーを聞いて「鴨々川ヤナギ並木物語」を書く

ヒストリーを聞いて、ストーリーを撮る「まちあるき授業」に参加した。
引率者を含め4名グループで明治時代創業の桜本商店を訪問。
古いアルバムに貼られた写真を見ながら貴重な話を聞く機会に恵まれた。

提供された1枚の写真に私が撮った写真を加え、聞いた話に私の体験を添えて「鴨々川ヤナギ並木物語」を書きたい思う。体験と言ってもたった11年。

しかし、この間に台風や危険木伐採で多数の柳を失い、もはや柳並木とは言えない状態になってしまった。 
札幌で一、二といわれたシダレヤナギの街路樹が徐々に消え去ろうとしている。 

しかも現在進行形である。これでいいのだろうか? 
失った景観は元に戻すことは出来ないが、記録として残せば何らかの参考になるだろう。

先ず現状を見てみよう! 現地調査

現状を見てから、過去を振り返る。 と言っても過去の資料は1975年の写真が1枚だけ。 手持ちの写真は全て2001年10月以降のものばかりである。 

これだけじゃあ駄目だ。 引き続き情報収集に努めるつもりだ。 

それでも11年間撮り続けた中島公園の写真は、いつか日の目を見ることもあるだろう。

左の画像は、2012年10月19日に撮った鴨々川沿いの柳並木である。この内の何本かは、将来倒れるかも知れない。しかし、この写真は残る。

前置きはこのくらいにして現状を報告する。 

2012年11月9日調査 中島橋〜中州第1号橋 柳並木その後

日本庭園近くの中島橋からキタラ近くの中州第1号橋までの500mを、北から南へと歩いた。 そして、街路樹としてのヤナギ植栽状況を調べた。

現在のカラフルな散歩道になった時点で柳は64本あったと推定する。現状は柳の古木14本、倒木の後に植えられた柳の若木7本計21本

これに対して、倒木した柳の後に植えられた銀杏(イチョウ)は30本。そして倒木の後、何も植えられないで放置された空地が13ヵ所もある。

札幌で一、二といわれたシダレヤナギの街路樹

鴨々川には中島橋がある。 中島橋はかって中島公園への正面入口であった。(中略)そこから川ぶちにシダレヤナギが続く。札幌で一、二といわれるヤナギの街路樹は詩情を誘うに十分なものがある。その数64本、一部は補植されている。  (『中島公園百年』 山崎長吉著より)

2001年10月7日初の撮影 中州1号橋すぐ下流の鴨々川

11年前にデジカメを買った。私の中島公園撮影は、この日から始まった。
下の画像左端は若木から育った銀杏。柳の倒木跡に植えられたと思う。 


上は2001年10月7日、下は11年1ヶ月後の2012年11月5日の撮影。


2012年現在の画像。上の画像と比べると柳は減り銀杏が増えている。

2002年8月18日撮影 鴨々川沿い散歩道の柳並木


日本庭園近くの中島橋からキタラ南西側の中州1号橋までの500mは、散歩道になっている。 
小奇麗な柵とカラー舗装された道だが、川沿いの柳にとっては生きにくい道だったろう。 
相次ぐ倒木でそう思うようになった。

鴨々川をはさんで日本庭園、豊平館、札幌コンサートホール・キタラ等がある。
しかし、この散歩道の目玉は川沿いに植えられた柳の木々だろう。
残念ながら台風で倒れたり、危険木として伐採されたりして、かっての面影はない。 
最近は柳に代わって銀杏が植えられたりしている。

2002年10月2日の台風第21号後に危険木伐採


2002年10月2日の台風第21号は中島公園にもかなりの被害を与えた。
「北海道に30年住んでいるが、こんな経験は最初で最期だろう」と思った。
台風で木が倒れることは予想していたが、木の根が浮かされて危険木になるとは想像できなかった。 
しっかり根を張っていなかったのだろうか。


2002年10月15日危険木伐採作業。残念だが危険防止の為なら仕方ない。


4日後に切られた柳を見ると寂しい。 こうして古い柳は次第に減って行く。 


上と同じ場所10年後の風景。当時植えた若木が育つ。 2012年10月撮影

当時は何とか柳並木を保とうとしたが、最近は倒壊した柳の代わりに銀杏の若木を植えている。 
そのまま放置されている所もあるが、一部は花壇として利用されている。
もはや柳並木の再現は望めないのだろうか。

2003年7月と2012年10月 鴨々川沿いの柳比較

は2003年7月、は2012年10月の撮影。1本無くなっているのが分かる。

本当はもっと沢山倒れた場所を載せたかったが手持ちの写真がない。 
その時に問題意識を持っていないと、後で役に立つ写真は撮れないと実感した。


上の写真と比べて見ると手前の一番太い柳が倒れたことが分かる。たとえ1本でも景観は変わる。 
隠れていた白いビルがはっきりと見える。

2004年5月22日と現在(2012年10月19日)との比較

2004年9月の台風18号が襲う前と、現在の景観との違いを比べてみた。

が2004年、が2012年。 柳が2本減って銀杏の若木が大きくなった。

2004年9月8日、台風第18号が中島公園を襲う

2004年9月8日、台風第18号が中島公園を襲い多くの木々を倒壊させた。
2枚上の画像と比べて見ると、その柳が倒壊したことが分かる。


場所と木の形から見てその柳と分かる。 2004年9月8日台風当日撮影


約1ヵ月後、切られた跡を反対方向から撮影。 2004年10月17日


ホタル橋(渡辺淳一文学館近く)横の柳も倒壊。2004年9月8日台風当日撮影

2012年11月5日 鴨々川沿い柳並木の現状

中島橋から中州第1号橋の間、約500mの鴨々川沿いは自然豊かな楽しい散歩道になっている。 
川を挟んで日本庭園、豊平館、札幌コンサートホール・キタラがある。 
この道の目玉は川沿いの柳並木だったが、すっかり変わってしまった。 
多数の柳が台風などで倒壊し、もはや並木とは言えない。


橋は中島橋、川向こうは日本庭園。 ここには多分柳があったと思う。


中島橋近くには柳並木の一部が残っている。7本程度。


21世紀初期までは、柳が倒れた後は柳の若木が植えられたのだろう。


その後、倒れたまま放置されることもあったようだ。 
中には一旦若木を植えたものの、その若木自体が倒木した跡も見受けられる。


豊平館近くに3本分の倒木跡がある。 
理由があって植えないのだろうか。ここに3本の柳を植える予定かも知れない。
そうすれば柳並木らしくなる。


かってはここも柳並木だったかもしれない。 今は一本だけ。


2004年の台風18号で倒木した跡がある。 渡辺淳一文学館前。


札幌コンサートホール・キタラ裏は並木にはなっているが銀杏が多い。


建物は札幌コンサートホール・キタラ。 銀杏、柳、銀杏と並んでいる。

64本あったと言われている柳は、補植した若木を含めても21本になった。 
しゃれたインターロッキングブロック舗装は柳に向かないのだろうか。ものを作るのは一つの仕事。 
それを維持保全するのも仕事だが、計画段階で維持保全する側との意見交換はあるのだろうか?


画像のキタラ、鴨々川、散歩道と銀杏並木。 2012年6月24日撮影


2012年10月20日 「まちの写真物語」

札幌まちあるき博物館とオオドオリ大学共催の「まちの写真物語」に参加した。 
取材先の「桜本商店」から提供された1枚の写真が、この記事を書くキッカケとなった。 

写真を見ると、こんもりとした柳並木が続いている。 
さっそく現場に行ってみたが、画像の風景はもとより似た風景さえ見られない。景観は柳と共に消えたのだ。

明治43年創業の桜本商店を訪問。


古い写真を見ながら話を聴くと歴史が見えて来て、その場所に行ってみたくなる。


珍しい写真があった。今はない昔の中島公園を撮ったものである。
上は豊平館近くの太鼓橋、よく見ないと分からないが上端に太鼓橋が写っている。
左下は百花園の噴水池、今は噴水もなく、芝生に彫刻と花壇のある「香の広場」。
右下も百花園にあったセメント作りの「森の歌」。現在はブロンズで再鋳造されて児童会館前にある。

柳並木の景観はいかにして失われたか

「鴨々川の柳は、京都の鴨川の柳並木を模して川ぶちの料亭鴨川(南12条西6丁目)が植えたともいわれている。
(『中島公園百年』山崎長吉著)」

約30年前には64本あった柳も、今は14本。その後の補植を合わせても21本しかない。

30本は銀杏に変わり、残りの13ヶ所は何も植えられていない。
柳並木の景観が、なぜ失われたか。台風で倒木とか推測はできるが、それだけではないだろう。

21世紀に入ってからの状況なら、自分なりに把握しているので、とりあえず21世紀に失われた柳についてまとめてみた。

2002年10月の台風第21号以前の柳


キタラ裏を流れる鴨々川。この頃は柳もかなり残っていた。 2002年1月23日撮影。


同じ場所の反対側。同年3月25日撮影。


同じ場所の春景色。同年4月7日撮影。

2002年10月2日の台風第21号の被害


鴨々川の写真は撮りそこなったが、同じ柳が菖蒲池南側でも倒木。
「根が浮く」という状態分かったような気がした。10月3日撮影


調査の結果、根が浮いていることが判明。 倒木の恐れがあるので伐採。 
動物で言えば安楽死だろうか? 2002年10月19日


心優しい人により伐採された柳に別れの花が添えられた。2002年10月19日撮影

2004年の台風第18号以前の柳


2002年の台風は2年後に襲った台風18号に比べれば軽微な被害だった。
中州第1号橋上より撮影。2004年5月22日

2004年9月8日の台風第18号で被害甚大

上の画像にある柳2本も倒れた。 
2年前の台風では生き残った柳も、次に遭遇した台風第18号には耐え切れなかった。
根はしっかり張っていたようだが折れてしまった。想定外の木折れかも知れない。


軒並み折れた柳。2004年9月8日撮影。

現状を見て未来を考える 2012年11月

以下の画像は2012年11月5日に撮影。先ずは、現状を見て未来を考えたいと思う。

中島橋から公園橋の間、言い換えれば日本庭園近くから豊平館近くの間は、
下の画像の様に木を植えてない場所が多い。 同時に柳の古木も比較的多く生き残っている。

それに比べて公園橋から中州橋の間、言い換えればキタラ裏はほとんど銀杏に代わって来ている。 

この状況を踏まえ、もし柳並木を残すなら、中島橋から公園橋の間と考えるのが、費用対効果の面から考えて妥当と思う。


柳並木を再現するにはどうしたらよいか、樹木の知識はないが自分なりに考えてみた。
単なる思い付きとしか言いようはないが、ここには柳の若木を植えたらよいと思う。


ここは中島橋に2番目に近い。柳がいい。


既に柳が補植されているので柳が続く。


次なるここにも柳を補植したらいいと思う。


その次がここだから、柳がいいだろう。


この辺は空地が続いている。


上と重複するが、三つの空き地にも柳植栽。
そうすれば、中島橋、公園橋間、言い換えれば、日本庭園裏から豊平館裏までに、
昔のような詩情を誘う柳並木が復活する。


公園橋を過ぎるとキタラ裏となる。 この辺りはほとんど銀杏と入れ替わっている。
柳も少ないので、このままでいいと思う。


渡辺淳一文学館前のホタル橋にわずかに残る柳は、あるものはそのままでいいだろう。


一旦、若木を植えても折れてしまう場合もある。黒いのは切り株。ここはキタラ裏。


所々に何も植えてない空き地がある。


ここにも空き地あり。建物はキタラ。


キタラ裏の銀杏の若木も育っている。


すっかり銀杏並木に変身した中州橋付近。

現状から見て、公園橋の北側に柳並木を復活させたらどうか考えてみた。  
しかし、せっかく植えても風水害に耐えられるか分からない。以上は私の思いつきに過ぎない。

鴨々川ヤナギ並木物語とは?

「『鴨々川ヤナギ並木物語』とか言ってたな。どこが物語りなんだ」
「鴨々川の柳並木の一部始終について書いたつもりです」
「『推定』とか『そう思う』『思いつき』とかが多すぎるぞ」
「それが辛いところです。断定できることが少ないのです」

正確な事実は把握していないが、台風後の倒木は見てきた。 
しかし、倒木や危険木の原因は他にもあるだろう。

正確な記録とはいえないので「物語」とした。  
自分なりに一所懸命調べて書いたが、残念ながら推測が多い。
思い込みもあるかも知れない。これを機会に更なる情報収集に努めたい。
札幌の代表的な柳並木が訳の分からないうちに消えるのは良くないと思う。
一定の議論をすれば次に繋がるだろう。

posted by nakapa at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 失われた景観

2012年11月12日

ランドマークの木

この風景に見覚えがあるだろうか? 今はない大きなポプラ。
2006年8月21日に危険木として伐採されたのだ。 もう見られない(寂)。

今はない この木何の木 ランドマークの木?


札幌コンサートホール前にあった巨大ポプラ。2006年8月10日撮影

「キタラ前の名物ポプラが危険木として伐採されました」
「コンサートには何回も行ったが、ポプラには気づかなかったな」
「皆さんの無関心がこの木を倒したのです!」
「危険木なんだろう。突然倒れたら危ないじゃないか」
「2004年の猛烈な台風18号でもびくともしないポプラです。倒れるもんですか」
「ポプラは風に弱い。伐採しなけりゃ危ない。あの台風でもバタバタ倒れたぞ」


シンボル的な大木がなくなり空だけが虚しく広がる。 2012年10月12日撮影

「大きなポプラがなくなって寂しくなりましたね」
「空は広いしポプラの下敷きになる心配もない。俺は嬉しいサッパリしたよ」
「景観に関して、大木が果たす役割の大きさを感じます」
「重さも感じるねぇ。危険木があったら怖くて歩けないよ」
「実は、この木の役割は景観だけではないのです」
「そうかい」


百花園のあった1970年代の写真。背景は藻岩山。 札幌市文化資料室所蔵

「右上に直立したポプラが見えますね」
「なるほど。あの木の後ろにキタラが建ったんだな」
「あのポプラのお陰で、今はなき百花園の位置を推測できるのです」
「つまり、目印として役立っているのだな」
「そのとおり! ランドマークとしても重要なポプラでした」


百花園の跡地。中島公園ほぼ中央の「香の広場」。 2004年4月8日撮影

「藻岩山とキタラ前のポプラを見れば、ここが百花園だったことが分かります」
「ビルが邪魔だな。藻岩山が見えなくなってしまうぞ」
「心配ですね。藻岩山の景観があってこその中島公園です」


キタラ前のポプラが伐採された後の「香の広場」。 2011年7月11日撮影

「木が生い茂っていても、キタラが見えるから便利じゃないか」
「全ての園路はキタラに通じています。迷うことなどありません」
「寄り道もしたいし、近道もしたいぞ」
「それではポプラの跡地に目印を建てましょう」
「新しいランドマークか。ポプラと同じ高さがいいな」
「そうですね。『ここに中島公園のシンボル的なポプラがあった』と書くのです」

中島公園の歴史は札幌の歴史そのものと思う。 
例えば、このポプラにしても時代とともに周囲は変化してきた。
最初は明治・大正時代の岡田花園、次に昭和初期の初代「子供の国」、
新設された「子供の国」、そして現在の札幌コンサートホール・キタラ。

周囲が変化しても、ポプラは同じ位置に立っていた。
そして、2006年8月21日に危険木として伐採された。 
大きなポプラとともに歴史上のランドマークを失ってしまったのだ。

古い写真を見ても、この木があることにより現在の場所か分かる。 
しかし、なくしたら目印を失い分からなくなってしまう。代替物が必要と思う。

2006年8月21日 危険木としてキタラ前のポプラ伐採

2006年11月5日、「中島パフェ」掲示板に投稿があった。
「……以前キタラ前広場の南にあった大きなポプラはいつ、どうして伐採されたんでしょうか。
大好きな樹だっただけになくなってしまって残念でなりません」


私も残念でならないが、危険木として8月21日に伐採された。
木に縛り付けられた「お知らせ」に次のように書いてあった。
「この木は倒木の恐れのある危険木であるため、8月21日に伐採いたします」


実に堂々としたポプラだ。しかもランドマークの役目も果たしていた。
古い写真を見るとき興味をそそるのは「ここが現在のどこ?」という疑問。
それほど、中島公園は変遷を重ねて来ていたのだ。
大切な緑とともに、場所特定の決め手となる目印を失ってしまった。


伐採作業は大型クレーンや高所作業車を要する大掛かりなものだった。


少しずつ枝が切り取られ、最後は根元から切られた。巨大ポプラの見納め。


根元のほうも何となく傷んでいる感じだが、どうなんだろう?


これは大きな空洞! 中を見れば何時倒れるか分からない感じがする。


大きなポプラがある風景は二度と見られない。理屈は分かるけれど寂しい。 

2006年8月21日 危険木として伐採


いろいろ特徴のある「札幌コンサートホール」だが、今回は1本のポプラの木に注目したいと思う。 
今は無き名物ポプラ。キタラ前のポプラは2006年8月21日、ついに、その姿を消した。 
2004年に中島公園に凄まじい傷跡を残した、台風18号にも耐えた大きなポプラが危険木と診断され伐採されたのでである。 

「台風でも生き残ったのだから、何も慌てて切り倒さなくていいのに」と思うの浅はかな考えだろか?

伐採してバラバラになったポプラを見ると、なんと! 大きな空洞があった。
この木は危険な状態にあったのです。

文句を言われそうなイヤ〜な予感。
「愚かな考えだよ。素人のおせっかいだ」
「穴があったら入りたいです」
「そこにあるよ。おあつらえ向きの空洞が」


「入るからその木を柵の外にだして下さい」
「………」
「さあさあ、早く〜」


柵の中は関係者以外立入禁止です。どこかで聞いたような話ですね。
一休さんのマネです。失礼しました。


かなり大掛かりな作業。経費はどのくらい?

以下、札幌市文化資料室所蔵の画像。

文化資料室の写真から「キタラ前のポプラ」らしいものを集めてみたが、どうだろうか?

左側の大木は?

真偽のほどは分からないのだが、「これは違う」とか「そう思うとか」、
話題になることを期待して掲載している。


彼方に写っている藻岩山との関係で、あのポプラと推定したがいかがなものか。
時代は昭和初期と勝手に推定。ポプラはともかく、左の大木はなに?

演出された昭和初期の撮影?


現在のデジカメ時代と違って、写真を撮るのは、カメラから現像までお金がかかる時代。

この写真からは「写真を撮るから、こうしてくれ」という演出が感じられる。
というと、昭和初期かもしれない。撮影者の位置によっては、藻岩山とポプラがこのように見えると推定したが……?

以前あった百花園だろうか?


左側にぼんやりと小さく見えるのが噴水の中にあった彫刻「森の歌」とするならば、
あのポプラに違いない。もしそうならば、1960年代の撮影と思う。

この写真でキタラ前ポプラと推定


1970年代、まだ百花園があった頃のの画像。藻岩山と比べての位置からポプラがキタラ前のものと推定した。

そうだとするならば、ランドマークとして重要な樹と言える。伐採して目印を失ってしまった影響は大きいと思う。

伐採跡地に新ランドマークを!

代替物は小さいものなら、ポプラと同じ高さの棒、大きいものなら展望台がいい。
展望台の高さをポプラと同じ高さにして、「在りし日のポプラになって見渡してみよう」
とか書いたら面白いかも知れない。

現在の形となった中島公園


文化資料室の文書には2000年(平成12年)の撮影と書いてある。
札幌コンサートホール・キタラとポプラ、手前に「みどり子ちゃんファミリー」が見えている。 
これが現在の中島公園の形である。

以上、札幌市文化資料室所蔵の画像。


将来のために

中島公園こそ札幌の老舗公園と思っている。中島公園の歴史は札幌の歴史そのものとも考えている。

中島公園は札幌の発展に合わせて、変化を重ねてきたが、その痕跡はほとんど消失されている。

ホームページ「中島パフェ」を開設してから来年の春で10年。
せめて21世紀の歴史だけでもキッチリと残したいと考える。

10年後、100年後、出来れば1000年後にも役立ってほしいと願っている。

伐採現場上空で騒ぐカラス


「俺達の住処をどうしてくれる」とカラス?

近くで見れば大きなポプラ


ああ、人間はちいさいな〜。

タグ:キタラ
posted by nakapa at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 失われた景観

失われたムクドリの木

失われた景観 〜ムクドリの木〜

2001年秋より中島公園の写真を撮り続けた。初期の写真には今はない景観が記録されている。
このまま埋もれさせておくのは、もったいない。
情報化社会では泡一粒のような記録も集積され解析されれば価値を生む。

今はない この木何の木 ムクドリの木?


2003年11月16日撮影。2009年11月中央の木は危険木として伐採。

2004年9月8日、台風第18号が中島公園を襲い多くの木々を倒壊させた。
しかし菖蒲池のシンボル的存在のこの木は残った。台風に負けなかったのだ。
あれから5年、まさかこの木が伐採されるとは夢にも思わなかったが、写真を撮っておいてホントによかった。
虹を撮ったら木が写っていたのだ。

2009年10月15日 大きな枝が折れて落ちる


威容を誇った大木は内部から蝕まれていたようだ。支えきれずに折れた枝。
折れた跡にポッカリと大きな穴。これは大変どうなることかと思ったが。

2009年10月28日 しばらくそのままの状態


大きな空洞があり倒壊の恐れがあるので伐採について検討中の様だ。
池の中島だがボートは寄ってくる。何時倒れるか分からない危険木である。

2009年11月28日 ついに切り倒される


伐採は寂しいけれど仕方がない。素人目にも倒れそうに見える。
補強して支える方法はあったのだろうか、その為の費用は?結局、伐採されることになった。 

長い間 菖蒲池のシンボル的な木だった


2004年5月5日撮影。これより5年後、右側の大きな枝が折れて伐採となる。大きくて枝ぶりのよい木。 
中島公園の景観として欠かせない木だった。しかし、突然倒れたら危険だ。それは分かるけれど惜しい。


2001年10月20日撮影。デジカメ買って初めて撮ったお気に入りの木。
「お気に入りの木」と言うのは後講釈。池周りの紅葉を撮ったら写っていた。
中島公園に詳しい人から大切な木と聞いて、お気に入りになった。

ムクドリ親子の巣があった想い出の木

2005年6月3日、「こまどり日記」というブログを運営しているコマドリさんからメールでお知らせがあった。
この木からムクドリが巣立つのを見たそうだ。

「今朝(3日)中島公園を9時ごろ散歩をしてましたら ムクドリの巣立ちを見ました。
ムクドリの両親がパンのえさを運んでいきます。まもなくすると中から数羽の子供が巣立って出てきました。
まだ中にいるようです。翌日もいるかどうかは分かりませんが もし好かったら見てください。 コマドリ」

ムクドリの巣を見つけるなり、スラスラスラと持参のノートパソコンに描いてしまうのだから凄い。
まるで神業のようだ。翌日巣を見に行くと、洞の中にヒナが2羽いるのが確認できた。
こんな場所でヒナを見るのは初めての経験。この様な想い出をもつ木を失ってしまって残念。 
惜しいことをしたものだ。


2002年10月23日撮影。倒れそうには見えないが外見では分からない。
こうして見ると、中島のギリギリの所に立っていたハルニレなのである。ムクドリの木の樹木名はハルニレと思う。

2009年10月28日 折れた大きな枝


2004年9月8日の台風18号でも生き残った木だが、5年後に下の方の枝が折れた。

折れた跡には大きな洞が


これでは、この上の部分を支えきれない。この木に想い出をもつ人は多い。
2004年の台風第18号の後、「あの木は大丈夫ですか?」とメールで問合せがあった。

在りし日のムクドリの木 春夏秋冬


春 2002年7月27日撮影


夏 2004年8月22日撮影


秋 2003年10月14日撮影


冬 2002年3月25日撮影。
春先の氷面に融けかけの特徴がある。 来そうで来ない春。

ムクドリ親子の巣があった想い出の木

「何とか残す道はなかったのでしょうか」
「高田松原の『奇跡の一本松』の様にか。無理、絶対にムリ」
「根もはっていた様だし補強などして生かせなかったでしょうか」

「ところで、あの木は何の木だ」
「ムクドリの木です」
「それじゃダメだ。名前も知らんのか!」
「しかし、ムクドリの故郷なのです」
「そんなの絶対にダメ!」

「生まれた家を失ったムクドリの子はどうなるのでしょう」
「心配ない」
「死んでしまうかも知れませんよ」
「生きるも死ぬも自然の摂理」

ところで、「ムクドリ親子の巣があった想い出の木」のことだが、
冒頭に書いたように巣立ったのは、7年3か月前の2005年6月3日。
そしてムクドリの平均寿命は8年。しかも自然は厳しい。生きているか微妙なところだ。

泡の一粒ずつが無数の記録を残す

「歴史は勝者が作る」といわれている。これは必ずしも、戦争の勝者という意味だけではない。
人生の勝者も歴史を作る。ほとんどの記録は成功者によって残されているからだ。

「…私たちは一瞬に消えていく泡のような存在ではあるが、その記憶や記録を残すことによって、泡それ自体の息吹を歴史に伝えることができるのです」
北海道新聞2012年9月15日『体験を書きとどめる』ノンフィクション作家 保阪正康氏

私は泡の一粒として、記録を残そうとしている。その際、気を付けているいることが、一つある。
素のままの自分が泡の一粒として記録を残すこと。美化したり飾ったりすると記録を残す意味が薄くなり、もったいない。

記録を残すのも楽じゃない。折角の努力を無にしたくない。 
「泡それ自体の息吹を歴史に伝え」られればそれなりに役に立つ。

同時に自分の想いは書く。いろいろな人が、いろいろな想いを書いて残すことが大切と考えている。 
人類社会で初めて出現したネット社会には、今までと違った記録の残し方があっていいと思う。

posted by nakapa at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 失われた景観