2020年01月12日

昭和(戦後)の中島公園

戦後の復興、イベントの中島公園(1945年〜1989年)


1959年10月百花園完成 「森の歌」建立 札幌市公文書館所蔵

1945(昭和20)年 
10月 5日 進駐軍第五方面軍憲兵指令部接収 

中島プール接収
アメリカ人はプールが好きだ。首都圏での話しだが、基地の中の米軍専用のプールで泳がせてもらったことある。
水がもの凄くキレイという印象だった。その頃の日本のプールは濁っていて汚かった。
カラフルでパンが白くて水が透き通っている、これがアメリカの印象。当時は憧れの国だった。

1946(昭和21)年  
 6月16日 札幌文科専門学院設置 旧農業館借用 
12月2?日 札幌護国神社 札幌彰徳神社改称
 この年、進駐軍真駒内に移駐

菖蒲池に鯉10万匹放流
平和はいい。さっそく鯉を10万匹放流だ。のど自慢も始まった。これで腹いっぱい飯が食えれば言うことなしだが、コイのエサは何だったのかな。それとも大きく育った鯉が人間の餌になるのかな?なにぶん食料不足の時代だった。

1947(昭和22)年  
 3月 9日 NHKのど自慢全国コンクール北海道地方大会放送 
 5月 1日 札幌市立高等女学校に第五中学校併設(現、中島中学校)

1948(昭和23)年  
 7月24日 米第11空挺師団かまぼこ兵舎払下げ 

1949(昭和24)年  
 7月 3日 中島児童会館開館(払下げかまぼこ兵舎利用)
 中島児童会館の詳細はこちら→ 中島児童会館

払い下げであれ何であれ日本初の児童会館の開館だ。東京の方がちょっと早いという説もある。こぐま座も日本最初の公立の人形劇場。豊平館だって、あの有名な鹿鳴館より3年も古いのだ。茶室八窓庵は江戸初期の茶室である(豊平館と八窓庵は移築された建物)。

1950(昭和25)年
  3月14日 札幌文科専門学院 札幌短期大学改組 旧拓殖館を借用 
 3月31日 札幌高等家政女学校 札幌星園高等学校改組 
 4月 1日 札幌市立第一高等学校 道立東高等学校改称 


1950年、変わらないのは藻岩山だけ。札幌市公文書館所蔵

1951(昭和26)年
  8月 4日 旧拓殖館 道立地下資源調査所使用

1953(昭和28)年 
11月16日 東高等学校移転 中島中学校全面使用
1954(昭和29)年 
 8月 1日 札幌中島スポーツセンター設置

イベント会場「中島スポーツセンター」 札幌市公文書館所蔵

上から中島スポーツセンター、中島球場、百花園、菖蒲池。今残っているのは菖蒲池だけ。
ほとんどは緑のオープンスペースとなる。

 8月22日−26日 第九回国民体育大会秋季大会開会式開催 
 札幌中島スポーツセンターバスケット競技会場 公園内に庭球場 
 相撲場設置 

スポーツ、芸能なんでもありのスポーツセンター。満席になると6,000人。
イベント終了で、一挙にススキノに向かうのだから、ちょっとした賑わい。
文字通りススキノの延長線上の中島公園だった。因みにキタラは2,000席。

1955(昭和30)年 
1月 第九回国民体育大会冬季大会アイスホッケー中島特設リンク開催 
8月 大相撲北海道準本場所開催 中島スポーツセンター会場 以後継続 
10月14日 札幌短期大学南8条西18丁目移転 

1956(昭和31)年 
8月26日−9月18日 原子力利用博覧会開催 
札幌中島スポーツセンター会場 
12月22日 NHK大通放送局開設 中島公園から移転

米軍、札幌短期大学、NHK札幌放送局も中島公園を離れて、それぞれの場所に移転した。これらは公園が公園らしくなる移転と言える。

明治時代に著名な造園技師の設計により素晴しい公園になるはずだったが、富国強兵、産業振興の波に押されて、ゴチャゴチャなってしまった感がある。それらを少しずつ修正する流れが始まった。

1957(昭和32)年 
 3月22日 総合公園指定 
 5月31日 豊平館北一条西一丁目から移転
 豊平館の詳細はこちら→ 豊平館(国指定重要文化財)

中島公園へ移築3年後の豊平館 1960年9月27日

1958(昭和33)年
  7月 5日−8月31日 北海道大博覧会開催


北海道大博覧会の会場として誕生した「子供の国」。札幌市公文書館所蔵

「子供の国」は1958年に開園し、1994年円山動物園の中に移設され、
その跡地は札幌コンサートホール・キタラとなっている。
天文台も大博覧会を機に開設されたが現在も活動を続けている。


1958年11月3日、雪印マークの天文台。


天文台内部、いかにも天文学の雰囲気。
以上2枚、札幌市公文書館所蔵

 9月 1日 博覧会施設の内、子供の国と天文台を独立施設へ転換
10月12日 博覧会事務所を中島児童会館に転換
この年モスクワボリショイサーカス開催、国立チェコフィルハーモニー交響楽団公演。
いずれも札幌中島スポーツセンター会場で実施。

北海道大博覧会開催で、前年に移転した豊平館に加え、子供の国、天文台、児童会館が施設転換して、
中島公園は大きく変貌した。
コンサートにボリショイサーカスと、なんとも賑やかな中島公園になったが、明治の先人が描いた公園構想とは、
だいぶかけ離れたものになったような気がする。

昭和34年(1959年)
  7月 1日 札幌彰徳神社 札幌護国神社改称 
  10月     百花園完成 森の歌など五基像逐次建立

1987年9月11日 後ろから見た「母と子の像」。 札幌市公文書館所蔵

森の歌など五基像についてはこちら→ 思い出の山内壮夫ワールド

1959年 山内壮夫の彫刻


1959年「森の歌」設置。噴水の中の彫刻。


1959年 「猫とハーモニカ」設置


1959年「母と子の像」設置
以上3枚、札幌市公文書館所蔵

1960(昭和35)年
  7月    第一回バラまつり 以後継続

1961(昭和36)年 
 9月 1日札幌簿記専修学校 旧拓殖館移転 
 この年、日ソ体操競技大会開催 札幌中島スポーツセンター会場

1963(昭和38)年 日本庭園完成


1963年4月28日、賑やかな波止場 札幌市公文書館所蔵

1964(昭和39)年
  5月26日 豊平館国重要文化財指定 
 7月26日 ホテル三愛落成(現、札幌パークホテル)


1964年8月29日 結婚式場の利用申込で賑わう豊平館。
札幌市公文書館所蔵 
10月 1日 札幌簿記専修学校 南8条西18丁目移転 
10月14日 中島中学校取壊し 学校移転 
この年、松方コレクション展覧会、プロボクシング全目本バンタム級タイトルマッチ開催、札幌中島スボーツセンター会場


1965年6月15日札幌まつり 札幌市公文書館所蔵

1966(昭和41)年 
 5月20日 ホテル三愛 札幌パークホテルと改称

昭和42年(1967年) 
 9月16日 ノモンハン英魂碑建立(札幌護国神社内) 
11月    園芸市15周年記念碑建立 
 この年、ウイーン少年合唱団公演 札幌中島スポーツセンター会場

1968(昭和43)年 
 5月 2日−31日 北海道緑化園芸協議会 園芸市開催 以後継続
 7月    アッツ島玉砕雄魂碑建立 

札幌護国神社にある「アッツ島玉砕 雄魂之碑」
10月10日 札幌護国神社焼失

プロボクシング、松方コレクション展覧会、そしてウイーン少年合唱団公演。百花園も完成、パークホテル改称など
地下鉄開通以前の中島公園の最盛期の感じ。私が中島スポーツセンターの歌謡ショーに行ったのもその頃だった。
「かおるちゃん、遅くなってごめんね♪」と歌い、最後に「バカヤロー」と怒鳴るのだからビックリした。
こう言うことは不思議に覚えている。


1969年頃 今では老舗マンションと言われるドミ中島公園。
右側はパークホテル 札幌市公文書館所蔵

1969(昭和44)年
 4月25日 野外ステージ建設 7月5日オープン 
 7月10日 中島プール改修オープンC級公認 
 8月 6日 道警本部中島庁舎 旧拓殖館使用 
 8月    地下鉄工事のため290本樹木移植 
 9月    池を干し地下鉄工事開始 

1970(昭和45)年 
 5月    地下鉄工事完了公園内復元 
 8月 3日 札幌護国神社しゅん工 

1971(昭和46)年 
 9月 8日 八窓庵 北4条西12丁目から移設

移設30年後の国指定重要文化財「八窓庵」。2001年10月27日

10月    メレヨン島戦没者慰霊碑建立 
12月    地下鉄開通 中島公園駅 幌平橋駅設置

札幌オリンピック開催を前にして地下鉄が開通した。この4年前始めて札幌の冬を経験。
北24条の電停で吹雪の中で電車の到着を待つ長い長い行列を見て北国の厳しさを実感した。
そして、雪国にこそ地下鉄が必要と思った。
温かい「東京にあるのに、なぜ寒い札幌に地下鉄がないのだ」と不思議に思った。

ボートに乗ってウオーターシュート見物 札幌市公文書館所蔵

1973(昭和48)年
 6月    日時計設置 
 6月    天皇皇后両陛下参拝記念碑建立

1975(昭和50)年
 7月 5日 子供の冒険広場開設(鴨々川水遊び場)
 鴨々川水遊び場の詳細はこちら→ 中島公園鴨々川水遊び場

鴨々川遊び場に架かる太鼓橋が見える。 札幌市公文書館所蔵 

1975年7月 鴨々川水遊び場オープン


当初はこんなに賑わっていた。


水遊び場の滑り台は撤去されたが、左の階段部分は今(2013年)でも残っている。


このロープもない。水遊び場の冒険的要素は2001年以前に取り除かれていたと思う。


家族のレクレーションの場でもある。
以上4枚、札幌市公文書館所蔵

 8月 2日−3日 第一回バザール開催 
 8月    北千島慰霊碑建立 
12月25日 歳の市開催 以後継続

歳の市も長続きしましたが、近頃は薄野側入口に2,3店だけの出店。

1976(昭和51)年 
 6月12日 薄野歩行者天国中島公園まで延長
今は薄野までだが、歩行者天国は中島公園までつなげて欲しい。
札幌駅から中島公園までの駅前通は一つのゾーンと考えてもらいたい。
それに大通公園がクロスする札幌は、訪問者にとって分りやすく親しみやすい街になると思う。

 6月15日 中島児童公園完成 
 7月24日 人形劇場こぐま座オープン
 こぐま座の詳細はこちら→ 札幌市人形劇場こぐま座

公立で全国で初めての人形劇場「こぐま座」。2003年6月22日

1977(昭和52)年 中洲1号橋完成(2004年4月28日道新)

1978(昭和53)年 
 4月    曙地区第8分区町内会、中洲橋付近の鴨々川清掃(以後継続)
 8月    北海道全海軍英霊碑建立 
10月    地下資源調査所 北19条西11丁目に移転

1979(昭和54)年  
 8月    道警本部中島庁舎移転 旧拓殖館取壊し 
 8月    史上最大のサーカス開催 札幌中島スポーツセンター会場 
11月    日中交歓卓球大会開催 札幌中島スポーツセンター会場

1980(昭和55)年 
2月3日冬のスポーツ博物館開設(元NHK札幌放送局建物利用) 
3月15日道立札幌中島体育センター(現、中島体育センター)完成 
 中島体育センターの詳細はこちら→ 札幌市中島体育センター
 6月 8日 鴨々川にウグイ放流 
 7月 9日−14日 中島球場最終試合、以後、中島球場は取壊し
野球場移転は寂しい気もするが、水と緑、歴史と芸術の中島公園を目指す、
新生中島公園の第一歩のように思う。


1980年11月豊平館創建百年記念式典 札幌市公文書館所蔵

1981(昭和56)年
 8月15日 妙心寺主催 鴨々川とうろう流し開催 以後継続
 とうろう流しの詳細はこちら→ 灯籠流し札幌市中島公園鴨々川

1982(昭和57)年 
 8月 1日 札幌市制60周年記念宝さがし開催

1983(昭和58)年
10月28日 歩くスキーコース設定 以後継続
歩くスキーの詳細はこちら→ 中島公園で歩くスキー

歩くスキーの講習会。1985年1月7日 札幌市公文書館所蔵

歩くスキーコースの設定は大変よいことだと思う。周辺はホテルが多いので、観光客の皆さんが手軽に体験してもらうのも良い。スキーの無料貸出がある。

1984(昭和59)年 
 7月    市立天文台全面改修

1985(昭和60)年 
 3月26日 中島児童会館改築オープン 
 5月    ヨットと方向像建立 
 6月 7日 北鎮砲兵発祥の地碑建立  
 6月 7日 彰徳碑建立  
 この年、童話の小道建設

中島児童会館への道は「童話の小道」。2003年6月21日


1986年8月18日 豊平館訪問の浩宮殿下 札幌市公文書館所蔵

1986(昭和61)年
 9月14日 歩兵第26聯隊軍旗奉焼の碑建立

1987(昭和62)年 
 7月12日 バイアスロン入賞顕彰碑を冬の博物館前に移設

 9月11日


アヒルがいたの?


豊平館近くの橋。


以前の白鶴橋。

以上は3枚、札幌市公文書館所蔵

1988(昭和63)年 
 6月 3日 冬のスポーツ博物館前にNHK放送記念碑を建立


NHK札幌放送局の跡地に建てられた「放送記念碑」。2013年9月 

放送記念碑には次のような説明文が書いてある。
「ここは昭和3年6月5日北海道で初めて放送が開始されたゆかりの地です。
NHK札幌放送局は、当時ここにあった中島演奏所でJOIKとしてラジオの第一声を発し、
それ以来昭和34年までこの地にありました。
北海道における放送の歴史を末永く後世に伝えるため、この放送発祥の地に放送開始60周年を記念して、
放送記念碑を建立しました。昭和63年6月」

1989(昭和64)年
4月22日 鴨々川清掃奉仕(曙第 8分区町内会)、毎年実施

中州橋付近の鴨々川で町内会が清掃。札幌市公文書館所蔵

タグ:大博覧会
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2013年12月17日

百花園があった頃の中島公園

百花園があった頃の中島公園 「中島パフェ」

20世紀末、平成の再整備前の中島公園は百花園や子供の国があった華やかな公園だった。
1958年北海道大博覧会開催された。その跡地にはバラと山内壮夫の彫刻を主体とした「百花園」が造られた。
残念ながら、1995年に始まる「平成の再整備」で中島公園の中心に位置した「百花園」は消えてしまった。
中島公園が最も賑わっていたのは「百花園」のあった36年間ではないだろうか。


中島公園「百花園」1994年10月7日撮影。 札幌市公文書館所蔵

以下の写真は「中島パフェ」訪問者のAさんが1978年か98年にかけて中島公園で撮影した写真。
Aさんの説明文を参考にして管理人が文章を書いたが、所詮素人説明しきれない部分も多い。
ここを出発点として勉強しなければと思っている。

ウォーターシュートの思い出(1972年の空撮写真を見て)

昔の中島公園の写真を提供してくれたAさんがウォーターシュートの思い出を次のように書いてくれた。
先ず当時の空撮写真を見てみよう。


1972年5月当時の空撮写真に百花園や子供の国。札幌市公文書館所蔵

「1972年当時の空撮写真を見て、公園を楽しんでいた身として思い出がわきました。
遊園地として設けられていた『ウオーターシュート』(赤丸)に気がついたのです。
画面やや左上方にジャンプ台を思わせるスロープが池に向かって延びています」

それは野球場、百花園、子供の国があった時代だった。もう一度、上の写真を見てみよう。
ウオーターシュートを基点に時計回りに、斜め楕円形の「百花園」、その横に中島球場の一部、
その下に三重丸の「中央広場」がある。

更に下がって遊具が見える「子供の国」、左側にまん丸の「記念広場」、下の方に野外ステージの屋根が見える。
そして小さな白いドームの「天文台」があり、菖蒲池に戻る。
この中で今でも残っているのは天文台と菖蒲池だけ、中島公園が様変わりした平成の再整備だった。


菖蒲池南東岸の築山にウオーターシュート。『北海道大博覧会協賛会誌』

再びAさんの説明文にもどる。
「長方形のボートに数人の客が乗り、船首の平たいところに船頭が立ちます。 
ボートが着水する瞬間に船頭がジャンプしてボートを安定させるダイナミックでスリリングな遊具でした。
人手が掛かるので博覧会終了後に無くなったと想像します」

写真をよく見ると、着水したウオーターシュートとボートが水上にある。
この築山は残っているが、子供たちが見ている飲食店のような場所はない。
関連写真を見ると「XX牛乳」とか「XXアイスクリーム」とかの字が書いてある。
XXの部分は字崩れしていて読めなかったが「雪印」だろうか? 
平成の再整備以前の中島公園は楽しく遊べる場所だったようだ。

明治時代(1897年頃)からあった貸しボート

明治の昔からあった貸しボートについて『中島公園百年』に次のように書いてある。
「釣堀から始まって明治30(1897)年過ぎから貸しボートが登場する。
これは最初は日吉亭が行ったが、のちに大中が優位を占める。
ボートは夏の仕事であるが、冬は陸揚げされて冬籠りするのもわびしい。

春になるとペンキを塗替えてまた息づく。
中央の土手を取り払って一つの池にしたことにより、さらに楽しみを倍加させた。
『O番さん時間ですよ』と呼ぶマイクロフォンの声は池上に広がりなつかしい声である。

貸しボートの櫓は、最初一枚の板幅の広い水を大きくかくように作られていたが、
重いことから今の二枚のスマートな櫓になった。

大正7年の開道50年記念博覧会のときは、数軒の斉藤と、その他の人の所有で20隻を数えた。
舟型は今とそうかわりはないが、すべて木造であることはいうまでもない。

そのころから大中ボートで代表されるようになったのは、料亭大中亭がボートを所有していたからで、
今でも大中がボートを一手に所有している」


1978年5月8日のボート乗り場。当時は相当賑わっていたようだ。
係留しているボートがなく順番待ちの人が並んでいる。


もう少し古い時代の中島公園。藻岩山と中島の位置から推定すると菖蒲池北側からの撮影と思う。
当時は「ボート池」と呼んでいたらしい。
1958年頃に作成された「道博記念事 中島公園百花園 及 記念広場平面図」に記されている。


上の2枚はAさんが父君のアルバムから見つけた写真。

1987年8月2日 皇太子殿下夫妻、中島公園ご散策

1987年(昭和62年)8月2日 皇太子殿下夫妻が当時、皇太子殿下ご一家で中島公園をご散策された。
まるで報道写真のようだが、これは「中島パフェ」訪問者のAさんが撮影した特別な1枚である。
写真と共にAさん自身が書いたエピソードを、紹介する機会を与えてくれたことに感謝。

画像と文は「中島パフェ」訪問者Aさんによる投稿

当時の皇太子殿下夫妻と紀宮様が全国高校総体開会式にご臨席するために来道されて、パークホテルにお泊りになりました。その事を知らずに私は、早朝の公園で十数羽の雛を連れて泳ぎだしたマガモ達の行列を楽しんでいました。

「かわいいですね」と声を掛けられて、振り向いた私はびっくりしました。テレビや新聞で存じ上げている、やんごとない方たちだったからです。殿下が後ろの遊歩道からお声を掛けられたのでした。

殿下は水鳥にも詳しいご様子で、私も野鳥の会の会員で少しは知っていることもあ市内に繁殖する鴨の実態を手短にお話しました。話が長くなるのは失礼と思い、切り上げる際に写真を一枚お願いしご返事の前に図々しくシャッターを押しました。

運よく傍らのSPは私を制止しませんでした。写真を見ると穏やかで親しみが込められた素敵な雰囲気で、撮影をお許し下さっていたことが分かり、ほっとしました。中島公園の朝の、記憶に残る時間の記録です。

平成の再整備以前の中島公園は楽しそう


1992(平成4)年5月17日撮影、 豊平館前で写生会。今と違い東屋があり柵がある。
この辺りでも2004年の台風等で何本かの大木が倒れたが、この2本のヤナギは今でも残っているだろうか。
大木は当時と今を繋ぐ接点となる。


写生会は今でもあるが、こんなに賑わうことはない。
少子化の影響もあるかも知れないが、この時代の方が面白そう。
例えば豊平館前の池に橋が架かっていたりする。
鯉も鴨も居るのだから、橋から見たら面白いと思う。
それに昔の写真を見るとアヒルも居たようだ。


この写真は凄く楽しそう。「子供の国」の観覧車や天文台ドームも見える。
マンションが建ったのは残念だが規制がないのだから仕方がない。
全体の都市計画の問題であるから、規制がないことこそ問題と思う。

1995年には自然の風情があった豊平館前

以下の4枚の写真についてはAさんからのメールに記されていた説明文に私の感想を交えて書いてみた。


「豊平館前は今と比べると自然環境が保たれていて風情がありました」との説明。
池の様子もちがって、自然と融合している様に見える。


「写真の右端にある橋は、今は平らな橋に造りかえられている太鼓橋です」との説明。
上とほぼ同じ場所だが、太鼓橋、東屋、橋、豊平館前の池の位置関係がよく分かる。
自転車の少女が見えるが太鼓橋は渡れないかも知れない。


Aさんの説明文に「1995年の公園には、現在の公園には無くなった風情がありました」とあるが、
自然に包まれている豊平館も素晴らしい。何となく生き物が生息しているような雰囲気がある。


「夕日が落ちる頃から、ツチガエルの鳴き声も聞かれたことを思い出します」と聞くとやっぱりそうかと思える。
ところで最近のことだが、カエルが鳴く声を聞いたような気がした。一生懸命探したが姿を見ることはできなかった。
聞き違えかも知れない。

1998(平成10)年9月3日 菖蒲池をさらう工事

菖蒲池の水を抜いてしまうという珍しい写真を「中島パフェ」訪問者Aさんが提供してくれた。
何の為の水抜きだろうか。ともかく貴重な写真だ。

1969年8月に着手された札幌市営地下鉄工事中には、このような風景も見られたと思う。
工事は池の水を抜いた上で開削工法により行われた。
そして翌年の1970年5月の完工まで公園内の一切は使用禁止となった。


菖蒲池の北側の様だ。鴨は飛んで行くので放っておくとしても鯉は回収しなければならない。
どうやらその作業が行われているようだ。


網で魚をすくっているようだ。


大きな鯉を捕まえた。


う〜ん、死んでいるのかな?


こんな貝が池の中に居たとは知らなかった。見る人が見ればこれらの写真から多くの事実を知ることが出来ると思う。
写真のお陰で普段見ることができない池の底を見ることが出来た。

以上の写真は「中島パフェ」訪問者Aさんの撮影。一部の文はAさんの執筆。
その他、Aさんからの情報を参考にして書いた部分もある。

2013年12月17日更新

百花園があった頃の中島公園

1972年から1998の中島公園

上のメインページは、「中島パフェ」訪問者のAさんが撮影した写真を中心に作成したものである。 
その時代、即ち「百花園」があった中島公園を振り返ってみたいと思う。
以下の写真は札幌市公文書館所蔵


1972.6.15 札幌まつり中島公園の人出

「札幌まつり」は毎年6月15日から16日の3日間。中島公園が最も賑わう日々だ。
今でも混雑しているが41年前は文字どおり足の踏み場もない大混雑だった。

ところで現在の中島公園には電柱が立っていないが、「札幌まつり」の時だけは仮設の電柱が立つ。
電柱を建てるための穴が整備されているのだ。

この設備を利用して、新しい夜のイベントを考えてみたらどうだろうか。
せっかくの設備を「札幌まつり」の三日間しか使わないのはもったいないと思う。

狸小路、薄野、中島公園と繋いだ夜のイベントはどうだろうか。それぞれの特徴を活かせたら面白いと思う。
最古の商店街、華やかな薄野、静かな中島公園。


1973.5.15 豊平館、太鼓橋が懐かしい


1976/8/0 二代目児童会館
初代の児童会館は米軍払い下げのカモボコ兵舎だった。
そして2代目(写真)は1958年開催の「北海道大博覧会」事務所跡を利用した。
今に比べて遊具が豊富だ。向こう側に天文台のドームが見える。手前のイチョウ並木は今より整っているようだ。
現在の児童会館は三代目。1985年の完成。初めて児童会館として建てられたものである。緑色で公園に融合している。


1977/2/0 中島公園子供の国
子供の国は1958年の北海道大博覧会で誕生。
1994年、平成の再整備に伴い円山動物園内へ移設。その後2010年に閉園


1977/2/0 中島公園記念広場
大博覧会跡地にできた施設。「子供の国」と天文台の間にあった広場。
天文台は残ったが「子供の国」と「記念広場」の跡地には札幌コンサートホール・キタラが建った。


1977/4/10 「のびゆく子等」の像
1976年、札幌市内の新一年生の記念事業の一つとして建立。小野健寿氏の作。


1981/4/19 中島公園のボート場がオープン中島公園は変遷を重ね、その姿は大きく変わってきた。
ボートも今とは違うが、変わらないのはボート乗り場と大中食堂だ。


1984/3/5 修復工事中の豊平館
1982年から5年かけて豊平館を改修。
今回の改修(2012年〜2016年)は移築してから2回目の大改修となる。


1985/4/28 中島公園子供の国春まつり


1985/4/28 子供の国 春まつりステージ


1989/12/10 豊水地区子ども会・中島児童会館合同もちつき大会


1990/5/30 中島公園ごみひろい
今でも「クリーン鴨々川清掃運動」「地元連合町内会」、周辺ホテル、その他各種ボランティア団体が清掃活動に汗を流している。又、個人で自主的にゴミ拾い行っている方を見たことがある。中島公園を大切に思っている方々の輪が広がっているようだ。


1990/7/16 鴨々川「鯉の放流」中島公園


1990/7/16 鴨々川で水あそび
最近は「鴨々川水遊び場」以外の場所も、川に入るスロープが付けられ、水遊びが出来るようになっている。
反面、写真のような賑わいはなくなったように思う。
鴨々川で遊ぶイベントはなくなり、家族連れなど個人利用が中心となっている。


1993/4/26 鴨々川清掃
地元町内会による鴨々川清掃風景。


1993/7/2 中島児童会館
1985年に完成した中島児童会館。現在はここにあるる遊具はなくなり、駐車スペースは別の場所に移っている。

以上の写真は札幌市公文書館所蔵。

未来を考える為に過去を振り返る

百花園のある中島公園は今よりも華やかだった。その頃を振り返ってみた。

「百花園」1987年9月11日撮影

以下の写真は札幌市公文書館所蔵。


噴水のある百花園は藻岩山を借景。右に見える大きなポプラは、2006年に危険木として伐採された。
藻岩山の一部は高層ビルの建設で隠れ、この景観も失われて行く。


バラ園のプールには「母と子の像」。


百花園に隣接する「中央広場」。


噴水の中の彫刻は山内壮夫の「森の歌」。中島公園の象徴的彫刻である。

コンクリート製の為この時点でも劣化が懸念されていた。永久的に残す為、ブロンズで再鋳造され、
中島公園の表玄関である九条広場に移された。

以上の写真は札幌市公文書館所蔵。

過去を考えるのは未来のため

過去を考えるのは、それを貴重な経験として未来に役立てる為である。
過去の成功、失敗を正当に評価して未来のために役立てたいと思っている。

後書き

私自身は2001年、すなわち21世紀に入ってから中島公園近所の住人となり、2年後にホームページ「中島パフェ」を開設した。従って、20世紀に撮った手持ちの写真は何もない。
中島公園に来なかった訳でもないが、撮った写真を見ても家族ばかりが写っているだけ。景色の写真は一枚もない。

このたび「中島パフェ」訪問者Aさんから、貴重な写真を沢山、提供して頂いた。
それ手がかりに、現在の中島公園は昔どうだったか調べてみたいと思う。

1年くらい前から、中島公園の歴史を勉強したいと思っていたが、文書で調べることが中心だった。
今、散歩している所は昔どんな場所だったか調べることから始めた。

しかし、皆さんから写真を提供されて、やり方を変えた方がいいと思った。
つまり、この写真は今の何処かを調べた方が中島公園の歴史を理解し易いと考えたのである。

 

参考文献

札幌市公文書館(所蔵資料)
2013年8月7日更新
札幌市公園緑化協会中島公園
2013年11月10日更新
『さっぽろ文庫84中島公園』札幌市教育委員会 編 北海道新聞社 1998年
『中島公園百年』山崎長吉 北海タイムス社1988年

謝 辞

このページ「百花園があった頃の中島公園」の作成に当たり、「中島パフェ」訪問者Aさんの協力を頂きました。
掲載写真は1978年から1998年までの間に、Aさんが撮影したものです。

念のためですが、コピー禁止であることを申し添えます。

沢山の貴重な写真を無償で提供して下さったことをAさんに感謝いたします。
ウェブサイト「中島パフェ」管理人nakapa


1972年5月空撮,野球場,百花園,子供の国が見える。札幌市公文書館所蔵
タグ:百花園
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2013年12月04日

1960年代後半の中島公園

わが青春の中島公園 〜1960年代後半〜

1960年代後半は「百花園」や「子供の国」がある華やかな時代。
札幌パークホテルがオープンし、アポロ11号が月面に着陸した頃である。

大通公園と見間違えそうな中央広場は消えた。 札幌市公文書館所蔵

以下の写真は札幌在住のmisawaさんが、大学時代に撮影した1966年から70年にかけての中島公園である。
その写真と歴史的事実を元に華やかな時代を振り返ってみたいと思う。

なお写真と事実との隙間は、管理人nakapaがアレコレ想像して埋めさせて頂いた。
一生懸命勉強して一日も早く想像の部分を史実へと、差し替えたいと思っている。
札幌市中島公園に芽生えた歴史の芽を枯らさないように育てて次世代に繋げたいと思っている。

1958年「北海道大博覧会」で大人気のウオーターシュート

1958年に開催された「北海道大博覧会」で人気のあったウオーターシュートは、博覧会後はどうなったのだろうか。


1972年5月 空撮、赤丸はウオーターシュート。札幌市公文書館所蔵

画像右側は野球場、百花園と中央広場、子供の国、いずれも現在存在しない施設。
一方、菖蒲池の位置は変わらない。ウオーターシュートが菖蒲池南東の小高い築山にあったことが分かる。

空撮写真からウオーターシュートの施設が1972年には存在していたことが分かる。
しかし、営業していたかどうかは不明。
ウオーターシュートが着水するエリアに水中フェンスがある筈だが、空撮では遠すぎて見えない。


こちらはmisawaさんが1966年から70年の間に撮影した写真。この時点では営業していたことが分かる。
左側に水中フェンスが見える。下の写真を見ればはっきりとわかる。
今までは写真を見ても何も分からなかったが、次第に明らかになって来た。

左側に杭とロープのフェンスがある。
右にウオーターシュート・スロープ、左に建造物、そこには「XX牛乳 XXアイスクリーム」と書いてある。
「北海道大博覧会設計図」が残っていれば、調べるときの有力な手がかりになると思う。
XXは雪印かな? 次第に資料が揃ってきた。判明したら更新するつもりだ。


ボートに乗ってウオーターシュート見物 札幌市公文書館所蔵

よく見ればボートが着水し「船頭」が両手を広げてジャンプしている。
ボートに乗りフェンスに近づいて見ている人は、写真を撮っただろうか?


菖蒲池南(キタラ)側、右側に河口。 札幌市公文書館所蔵
「道博記念事 中島公園百花園 及 記念広場平面図」より切り取り。


ボート乗り場の西側の一部とすると右側に見えるのは中島。
この島には1918年に開催された「開道50年記念博覧会」の迎賓館が建てられた。
東岸より島までの橋は名誉橋。迎賓館は博覧会後、ライオン食堂として営業された。
いつまでかは調べなければ分からないが、そう長くはないと思う。

1964年5月26日 豊平館が国の重要文化財に指定される

1958年に当時の札幌市民会館の場所にあった豊平館が中島公園に移築された。
その6年後に重要文化財として国が指定した。
移築後市営結婚式場として使われることになったが、重文の公営結婚式場はここだけかも知れない。


豊平館は1880年(明治13年)、札幌市民会館のあった場所に建てられた。
意外に知られていないが、文明開化のシンボルと言われた鹿鳴館より3年も前にオープンしている。

本来は開拓使迎賓館・洋式ホテルとして建てたもので、最初に明治天皇が宿泊された。
そして、大正・昭和天皇も皇太子時代に宿泊したことがある。
完全な洋式ホテルとしては日本最古といわれている。


先ずこのページの掲載写真について説明したい。
上の2枚のようにモノクロ写真はmisawaさん提供の写真。
そしてカラー写真は管理人nakapaが撮影した写真。
その他、札幌市公文書館所蔵写真がある。これについては個別に明記。
著作権者を明確にする為このように区別した。

豊平館の色

ある日、中島公園を案内していると「豊平館の色が変わりましたね。昔の色の方が好きです」と言われた。
外国在住で30年ぶりの公園訪問だそうだ。私も長年札幌に住んでいるので見たはずだが色まで覚えていなかった。
正直言って若いときは関心が薄かったのだ。

一体どんな色をしているのだろうと、札幌市公文書館で調べてみたが、いいカラー写真は見つからなかった。
下の写真は1960年9月27日の撮影だが、本当の色を反映しているようには見えない。


ウルトラマリンブルーで塗装される前の豊平館。 札幌市公文書館所蔵


1982年から5年かけて豊平館を改修した。当時のことを豊平館パンフには次のように書いてある。
「修復された豊平館の見どころは、館の白い外壁を縁どる瀟洒なウルトラマリン・ブルーで
創建当初のよすがを復元したものです」。

比べて見ると、やはりウルトラマリン・ブルーは美しい。
昔は宝石として尊ばれた、ラピスラズリ(瑠璃)から造られた高貴な色だそうだ。

「昔の色の方が好かった」と言われると昔を知らない私としては、思わず恥じ入ってしまう。
しかし今は違う。ウルトラマリン・ブルー塗装の方が美しいと自信をもって言える。
老朽化や移築などで失われた創建時の姿を改修することにより、取り戻したのである。

参考までに付け加えると、終戦前後の使われ方は酷かった。
1943年 旧陸軍北部軍飛行第一師団司令部、1945年進駐軍宿舎、1946年三越札幌支店として使用されていた。
単なる建物としか見ていなかったのだろうか。

1948年、札幌市中央公民館として社会教育の場となり、更に1958年、中島公園に移築され市営総合結婚式場となる。
2012年より改修工事中。完工予定は2016年3月と4年間の大工事である。

豊平館の歴史

1879年(明治12年)起工。
1880年(明治13年)11月 完成。
1880年(明治13年)12月3日 落成式。
1881年(明治14年)8月30日-9月2日 明治天皇が宿泊した。
1881年(明治14年)11月6日 原田伝也に無償で貸し付けて経営させた。
1882年(明治15年)2月 開拓使の廃止にともない、札幌県に移管した。
1885年(明治18年) 宮内省に移管した。
1910年(明治43年)9月 宮内省が札幌区に豊平館を貸し、区が電気を設備。
1921年(大正10年)12月 建物が札幌市に移管した。
1926年(大正15年)11月 市の公会堂の建設が始まった。
1927年(昭和2年)11月 新公会堂が完成した。
1933年(昭和8年)11月3日 国の史跡に指定された。
1943年(昭和18年)2月 旧陸軍北部軍の飛行第一師団司令部に使われた。
1945年(昭和20年)10月 敗戦後、進駐軍が接収し、宿舎にした。
1946年(昭和21年) 三越札幌支店が移転した。
1947年(昭和22年)10月 豊平館が米軍より札幌市に返還された。
1948年(昭和23年)2月 市による整備が終わり、札幌市中央公民館と改称。
1948年(昭和23年)6月29日 史跡指定を解除された。
1949年(昭和24年)9月 札幌市民会館に改称した。
1950年(昭和25年) 国が札幌市に敷地を払い下げた。
1957年(昭和32年)2月19日 中島公園へ移築に伴い。大通の豊平館解体式。
1958年(昭和33年)5月31日 中島公園への移築が完了した。
1958年(昭和33年)9月20日 結婚式場として開館した。
1964年(昭和39年)5月26日  国の重要文化財に指定された。
1982年(昭和57年)5か年計画の修復事業が始まった。
1986年(昭和61年)修復完了。創建当初のウルトラマリンブルー復活。
2012年(平成24年)4月1日より4年間工事のため休館。 

今は昔と違う豊平館前の広場


太鼓橋は子供の国(今はキタラ)への園路。左上に木々の合い間からパークホテルの一部が見える。
太鼓橋や自然を感じさせる木製の橋、そして東屋もあり、今より楽しそうな豊平館前広場があったようだ。
当時の写真を見るとアヒルのような白い水鳥が写っていた。その形からカモメではないことは断言できる。


左上に天文台が見える。従って、ここが豊平館前広場であることがハッキリと分かる。
そして豊平館前の池に架かる木橋が天文台側から豊平館側を繋いでいることも分かる。
映像の力は凄いと思う。謎がどんどん解けて行く。


平成の再整備以後は、太鼓橋は普通の橋に変わり、手前の橋と東屋は無くなった。
すっきりとした反面、娯楽性は薄れた。上品になったのかも知れない。


太鼓橋を菖蒲池側から見た写真で場所を確認。札幌市公文書館所蔵

豊平館の歴史クイズで気分転換

正誤クイズに挑戦して豊平館を考えよう! 

問題1:豊平館は戦争中、旧陸軍飛行第一師団司令部として使われた。

問題2:終戦後は進駐軍(米)が豊平館を接収、MP(憲兵)の隊舎とした。

問題3:1946年4月、進駐軍に代わり三越札幌支店が豊平館で営業。

問題4:豊平館は、完全な様式ホテルとして、最古と言われている。

問題5:豊平館は開拓使が建設した質的に最上級の豪華絢爛の建物。

問題6:明治天皇の北海道行幸(天皇が外出すること)の行在所となった日をもってホテル豊平館のグランドオープンの日とした。

問題7:開拓使は民間に豊平館を貸付け旅館と西洋料理店を開業させた。

問題8:豊平館は上から読んでも豊平館、下から読んでも豊平館。

問題9:1982年からの豊平館改修の見どころは、塗料ウルトラマリン・ブルーで創建当初の塗装を復元させたことである。

問題10:豊平館は文明開化のシンボルと言われた鹿鳴館より3年も古い。

解答は最下段。

これからの豊平館 2016年3月リニューアル・オープン

画像は2013年11月15日撮影。全面改修工事中の豊平館。

今回の改修は単に建物の耐震補強と修理だけではなく、豊平館のあり方が大きく変わる工事でもある。
今までのように結婚式関連中心でなく、文化財公開を第一とする。
それに加えて市民が利用できる施設にする計画がある。

先ず、貴重な建築物である豊平館を完全公開し、北海道開拓の歴史を伝え、
学ぶことができる観光施設としてレベルアップする。日中は観光施設として観光客等に公開する。

豊平館をミュージアムと捉え、公開範囲の拡大と充実を図る。開拓使の歴史等を伝える展示、情報発信等を行う。
土足入館とし有料とする。その場合全館有料ではなく足を運びやすい無料エリアをつくるべきとの意見もある。
それをどう反映させるかも課題と思う。

市民文化施設としては夜間、貸室としてコンサート、講演会等に利用出来るようになる。
対象として市民・団体・企業などが考えられている。民間ウェディングサービス会社による結婚式も可能となる。
飲食を伴う利用は、ケータリング事業者による対応で可能とする。この様な計画があると関係者より聞いている。

今回の改修で、豊平館本体の北側に明治時代の創建時に存在した付属棟を新設する。
そこにエレベーター、トイレ、物品収納機能をつける。因みに創建時の別棟には厨房、浴室、トイレ等があった。

中島児童会館

1949年7月3日、カマボコ兵舎(米軍の野戦用兵舎)をもらい受けて中島公園内に開設したのが始まりである。
全国初の公立児童会館としてオープンした。子供のための遊びと学習の催しを行っている。
2009年開館60周年を迎えた。


1958年(昭和33年)7月5日〜8月31日北海道大博覧会開催。
博覧会終了後の10月12日、博覧会事務所を中島児童会館に転用した。
ようやくカマボコ兵舎から脱出して本格的会館をもつことが出来た。画像は二代目児童会館。


二代目児童会館は「こぐま座」と並んで森の中。札幌市公文書館所蔵


従って現在の中島児童会館は一代目のカモボコ兵舎二代目の博覧会事務所跡に続く三代目であり、
初めての児童会館専用建物とも言える。1985年完成。児童会館前の広場は九条広場と呼ばれている。

広場には児童会館の他、人形劇場「こぐま座」、遊具のある遊戯広場、
子供たちにも親しまれている山内壮夫の彫刻「森の歌」、それに「童話の小道」がある。

「お子様ゾーン」と言ってもいいような場所だが、公園入り口に近い為「クリーン鴨々川清掃運動」等、
各種集会の集合場所としても利用されている。

菖蒲池と日本庭園の池に挟まれた池の中道


園路の左側は小さくボートが見えるので菖蒲池と思う。もしそうならば、右側は日本庭園の池であるはずだ。
ならばここは「池の中道」。最下段の空撮写真を見ると、そう思えてくるのだ。
両方の池を合わせた大きな池の中に、一本の道が通っているように見える。空撮写真にある池の左側で確認できる。


そして現在は、このようになっている。ここは札幌コンサートホール・キタラに行く道。
両側に池があって園路には藤棚があり風情のある道となっている。

「札幌まつり」毎年6月14日〜16日


中島公園に露店が並ぶと言えば、毎年6月中旬に開かれる「札幌まつり」。
残念ながら、ここが何処か分からない。今後資料が揃ってくれば分かる時も来ると思う。
歴史の調査は今の中島公園が昔どのような姿であったか知ることから始めたいと考えている。

その他の写真


人々はスーツなど、いわゆるヨソユキを着ている。手前には玩具のような物が山積みにされている。
「キッコーマン」との文字も見える。何かのイベントのようにも見える。背景は森だろうか。
私にとっては謎の写真だが興味深い。


これも場所がどこかが課題となる写真。
中島らしきところにある松の木とイチイは撮影時より約50年たっている現在では、成長したか倒れたか分からない。

松の陰に薄らと見える建物はmisawaさんからの情報と『札幌文庫84中島公園』のマップを照合すると、
北海道地下資源調査所らしい。もしそうだとすると、この写真は菖蒲池西側から撮ったものと思われる。


日本庭園側から園路を撮ったものとすれば、その向こうは菖蒲池?


残念ながら何処で開かれた何のイベントか分からないが服装が興味深く感じた。
行楽に行くのに大人はスーツ、子供は学生服を着るなど時代を反映したお洒落が懐かしい。
学生が学帽をかぶる時代だった。

以上のモノクロ写真は札幌市公文書館所蔵と記されたものを除き、札幌在住のmisawaさんの撮影。
ご協力有り難うございました。管理人

「わが青春の中島公園」時代は百花園の時代

この時代の中島公園の中心は北海道大博覧会開催を記念してつくられた中央広場。
そして博覧会跡地でオープンした「百花園」と思う。
百花園の時代は平成の再整備が始まる1995年くらいまで続いた。華やかな37年間だった。

平成の再整備後の中島公園は道立文学館、札幌コンサートホール・キタラが建ち、
野球場、百花園、中央広場等、跡地のほとんどは緑のオープンスペースとなる。
水と緑の中島公園に加え、歴史と芸術の公園を目指している。


1200株のバラを植え込んだ「百花園」は消えた。札幌市公文書館所蔵

misawaさんが撮影した当時の中島公園には野球場・百花園・子供の国があった。
今は野球場跡には文学館と広場、百花園跡地は「香の広場」、子供の国跡には札幌コンサートホール・キタラがある。

1960年代後半の中島公園その2

以下の写真はmisawaさんの撮影。それらの写真に触発されてこのページを作った。
百花園のある古い中島公園に思いをはせて、札幌市公文書館所蔵写真も一枚追加した。


どうやら「札幌まつり」の露店のようだ。金魚すくいをやっているらしい。
ところで、すくった金魚だが中島公園の菖蒲池に放して行く人もいるらしい。

と言うのは「札幌まつり」の後、池で金魚を見たことがある。2,3日したら金魚は居なくなっていた。
別に遠くに行ったわけではない。生き物に詳しい人の話ではカラスに食われたそうだ。

カラスに限ったことではないが、一般に鳥は目がよい。赤い金魚は遠くからでもよく見える。
しかも金魚は小さいから食べ易い。放した金魚が広い池で自由を満喫していると思ったら大間違い。
カラスのエサにされた様なものだ。


「札幌まつり」のオートバイサーカス。 札幌市公文書館所蔵

今も昔も中島公園が一番賑わうのは毎年6月14日〜16日の「札幌まつり」の日。
園路には露店が並び、自由広場にはお化け屋敷等の小屋が立つ。
オートバイサーカスは今でも行われている人気イベントである。


当時豊平館前広場にあった東屋とは違うようだ。何処だろうか。機会があったら調べてみたい。


何かのイベントのようだが、場所は菖蒲池北側と思う。他の写真と見比べてそう思った。


これは上の写真と同じものを別のアングルから撮ったものと思う。
皆さんは熱心に何を聞いて何を見ているのだろう。興味をそそらせる写真だ。
前列で見ている少年は中学生だろうか。今は55歳くらいかな。


1919年に植栽されたイチョウ並木。この写真の時点で約50年たっている。
そして2013年現在では約100年たったことになる。


風情のあった1960年代後半の菖蒲池。以下、6枚の菖蒲池の写真を並べてみた。

以上の写真はmisawaさんの撮影。

百花園があった頃の中島公園

1958年の北海道大博覧会を機に中島公園は大きく変わった。
子供の国、天文台誕生。その1年後百花園がオープンした。


「子供の国」札幌市公文書館所蔵

1994年、「子供の国」は36年の歴史の幕を閉じ円山動物園内に移設された。
「円山子供の国キッドランド」と名を変えて開園したが、2010年9月30日に閉園した。
子供の国を誕生させた北海道大博覧会から52年後のことである。

北海道第博覧会で誕生した天文台


「札幌市天文台」札幌市公文書館所蔵

1958年の北海道大博覧会で雪印乳業館として建てられた。
引き続き天文台として現在に至るまで利用されている。


2012年5月21日天文台で日食観望会

5月21日、大部分が欠ける部分日食が札幌でも見えた。
金環日食でないのは少し残念な気がしたが、約600名が中島公園内の札幌市天文台に集まってきた。
この賑わいは北海道大博覧会を超えたかも知れない。

博覧会跡地に出来た「百花園」


「百花園」札幌市公文書館所蔵

百花園は北海道大博覧会(1958年)の跡地を利用して開園したバラ園である。
1995年からの平成の再整備で閉園した。その跡地は緑とオープンスペースの芝生の広場となっている。
「香の広場」と呼ばれているが、余り知られていない。


「百花園正門付近」札幌市公文書館所蔵

現在文学館が建っている場所の向かいが百花園正門になっていた。
そこから入ると右側にローズハウス、左に曲がると水呑台、その右側に円形パーゴラ。
そしてその中心に山内壮夫の彫刻「笛を吹く少女」があった。


パーゴラに囲まれた「笛を吹く少女」


「笛を吹く少女」公文書館所蔵2枚

ボランティアが「笛を吹く少女」像の周りで清掃しているところだが、背後に円形パーゴラの一部が見える。


1959年と1961年に設置された山内壮夫の彫刻5体の内、「笛を吹く少女」だけが、ほぼ元の位置に立っている。
これが当時の百花園の位置を知る手がかりになると思う。

博覧会事務所が児童会館となる

北海道大博覧会終了後、博覧会事務所は中島児童会館として活用された。


二代目児童会館 札幌市公文書館所蔵1958年〜1984年の間使用される。


1984年児童会館一時閉館行事。同上所蔵現在の児童会館は85年にオープン。

移設された豊平館は博覧会美術館

何よりも大きな出来事は豊平館が市街地より中島公園内に移築されたことである。
そして豊平館は北海道大博覧会の美術館として使用された。


移築した豊平館。札幌市公文書館所蔵


豊平館で結婚式場利用申込み。同上所蔵

豊平館は中島公園に移設されてから市営総合結婚式場となった。
当初は利用申込が殺到、ピーク時である1962年には年間1148組の利用申込があった。

申込者は次第に減り、2010年には、たった50組となった。
2012年より2016年度まで改修中だが、豊平館の結婚式場としての役割は終わる。
結婚式を行うとしても民間による貸室利用サービスの一つに縮小される。


豊平館創建百年記念式典、同上所蔵

豊平館は文明開化のシンボルと言われた鹿鳴館より3年も古い1880年(明治13年)の建立。
1980年11月3日に創建百年記念式典が行われた。


豊平館前池左側の太鼓橋等。同上所蔵

この画像より、当時の豊平館前の池には菖蒲池に繋がる太鼓橋の他に木橋と東屋があったことが分かる。
池には蓮やアヒルも?

素晴らしい景観が消えた

1995年からの平成の再整備の中で博覧会を記念して造られた中島公園のシンボル的彫刻のある中央広場はなくなった。


北海道大博覧会を記念して造られた中央広場。噴水の真ん中に「森の歌」がある。札幌市公文書館所蔵

同時に、パラ園として人気のあった百花園は閉園となり、平成の再整備以後は「香の広場」と呼ばれる芝生の広場となった。

百花園の跡地は「香の広場」

「香の広場」は百花園跡地だが、中島公園のほぼ中央に位置し札幌コンサートホール・キタラに比較的近い。
下の画像に白い案内板が立っているがが、そこに「香の広場」と書いてある。


画像の白い案内板を拡大すると、この様に書いてある。
この他にも近くの木々の間に「香の広場」と書いた表示板があるが葉の陰に隠れて見えないこともある。

「香の広場」について書いたのには訳がある。
この広場はイベント等に使われることが多いのに名が知られていない。

「香の広場」とはハーブ等、香ある花を植えてある一角を示すのか、広場全体をさすのか不明だが、
あえて全体を「香の広場」と考えている。

「中島公園ほぼ中央の芝生の広場」とか「ワンワン広場」とか呼ばれることが多い。
イベント案内等を簡単に書くためには広場全体を指す名が必要と思う。

「子供の国」の跡地はキタラ

子供たちに人気の「子供の国」は円山動物園に移設。
現在その跡地には札幌コンサートホール・キタラが建っている。


まるで水の流れがキタラに通じているように見える。
一流のコンサートホールと言われているが景観も一流と思う。

未来を考える為に過去を振り返る

百花園のある中島公園は今よりも華やかだった。
この頁のタイトル「わが青春の中島公園」と重なる時代でもある。
その頃の中島公園を振り返ってみた。過去を考えるのは、それを貴重な経験として未来に役立てる為である。
過去の成功、失敗を正当に評価して未来のために役立てたいと思っている。

中島公園ほぼ中央の「香の広場」。

後書き

私自身は2001年、すなわち21世紀に入ってから中島公園近所の住人となり、
2年後にホームページ「中島パフェ」を開設した。

従って、20世紀に撮った手持ちの写真は何もない。
中島公園に来なかった訳でもないが、撮った写真を見ても家族ばかりが写っているだけ。
景色の写真は一枚もない。

このたび札幌在住のmisawaさんから、貴重な写真を沢山、提供していただいた。
それがキッカケになり、現在の中島公園は昔どうだったか調べたくなった。

1年前くらいから、中島公園の歴史を勉強したいと思っていたが、文書で調べることが中心だった。
それは今、散歩している所は昔どんな場所か調べることから始めた。

しかし、misawaさんか写真を提供されて考えたというか、やり方を変えた方がいいと思った。
つまり、この写真は今の何処かを調べた方が面白いと思ったのだ。

謝 辞

このページ「わが青春の中島公園」の作成に当たり、札幌在住のmisawaさんに協力して頂きました。
掲載写真は1966年から70年までに撮影されたものです。

沢山の貴重な写真を無償で提供して下さったことに感謝いたします。
ウェブサイト「中島パフェ」管理人nakapa

1972年5月空撮,野球場,百花園,子供の国が見える。札幌市公文書館所蔵

「豊平館の歴史クイズ」解答:問題8以外すべて正解。
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2013年11月15日

思い出の山内壮夫ワールド

山内壮夫ワールドとは

1958(昭和33)年7月5日から8月31日まで「北海道大博覧会」が開催。その後博覧会の収益でバラなどを集めた百花園、噴水のある中央広場を開設した。そして山内壮夫作の彫刻5体が順次設置されて行った。


「笛を吹く少女」の解説を聞き清掃をする小学生。 2010年9月

百花園にはの笛を吹く少女、母と子の像、猫とハーモニカ、鶴の舞、噴水の中央には森の歌が設置された。平成の再整備で百花園等は廃止されたが、4体が百花園跡地の「香の広場」に残され、森の歌はブロンズに再鋳造されて九条広場に設置された。

私の役目は次世代への継承

私たちシニア世代の最も重要な「仕事」は次世代への継承と思う。農業、工業、商業、家庭等の仕事をして来た人には継承すべき技術や技能がある。 しかし、「空の交通整理」に従事していた私には継承すべきものが何も無い。定年後は中島公園を良好な状態に維持して次世代に引き継ぐことを「仕事」と思うことにした。どれだけ出来るか分からないが精一杯やろうと思っている。

思い出の山内壮夫ワールド(昔の「百花園」)

中島公園の歴史を調べると札幌の歴史が見えてくる。2013年7月、札幌市公文書館が開館した。その所蔵写真を見てビックリした。そこには今の中島公園では見られない美しい「森の歌」の写真があったのだ。(下の画像)

噴水の中心に据えられた山内壮夫の「森の歌」。札幌市公文書館所蔵

この写真は背景にビルがあったり仮設された小屋が並んでいたりしていて少々見苦しい。おすすめの景観ポイントはこの画像の反対側にある。後ほど「消えた素敵な空間」の中でで紹介するつもりだ。

とりあえず噴水の中に立つ白くて美しい「森の歌」を載せてみた。心の中でビルと小屋を消して見れば、すっきりした景観がイメージされるだろう。

公文書館には、下に示す「百花園(1959年〜1995年)」とその周辺の空撮写真もあった。この写真の左側は今でもある菖蒲池、その下の方に天文台の白いドームが小さく見える。右上が中島球場だが、今は撤去され文学館を含む緑のオープンスペースに変わっている。


1972年5月空撮,野球場,百花園,子供の国が見える。札幌市公文書館所蔵

右半分中央に百花園全体が見える。上の方が半円形なっているが、半円の中央に見える白い点が「笛を吹く少女」、その右下のX状の真ん中の四角い人工池の中に「母と子の像」。そして、そこから斜め線が延びている。 

右側の白い点が「鶴の舞」、左側の更に小さい白い点が「猫とハーモニカ」と思う。そして、その右下の三重丸の真ん中に「森の歌」がある。

次の「消えてしまった素敵な空間」に掲げる3枚の写真を見て、このように推定した。 「森の歌」「笛を吹く少女」については後ほど示す百花園のマップと照合して間違いないと確信する。「母と子の像」については下に掲げる二枚目の写真からほぼ間違いないと判断できる。「鶴の舞」と「猫とハーモニカ」については正直に言って自信がない。もう少しハッキリした資料がほしいところだ。

消えてしまった素敵な空間

下の画像には冒頭で紹介した「森の歌」が藻岩山を背景として小さく写っている。山内壮夫が描いた公園のデザインは、この方向から見た百花園であり、「森の歌」ではないだろうか。

青空の下にそびえる藻岩山をバックに噴水がある。噴水に囲まれてる「森の歌」が立つ左側に「鶴の舞」があり、右側に「猫とハーモニカ」が小さく見える。

1987年9月11日 藻岩山を背景に3体の彫刻 札幌市公文書館所蔵

この画像では見ることができないが、手前には水の中に設置された「母と子の像」(次の画像)がある。「母と子の像」と「森の歌」、そして藻岩山が一本の線として繋がっている。そのような観点から見ると百花園は藻岩山を借景とした舞台ではないかと思う。残された彫刻にも新たな舞台が必要だろう。

長い間、札幌に住んでいるので百花園にも行ったはずだが、なぜか記憶が薄い。若いころは奇麗な花や景観などを楽しむ余裕がなかったのかもしれない。

今にして思うと、とても残念だ。美しい風景をしっかりと記憶に留めて置けばよかった。写真に撮って置けばもっと好かったと思う。昔は家族・友人等、人ばかり撮っていて、風景などは人物の背景としか思っていなかった。


1987年9月11日 後ろから見た「母と子の像」 札幌市公文書館所蔵

母と子の視線の先には、人間・動植物等の自然が刻まれた「森の歌」があり、更にその先に藻岩山がある。そして一連のオブジェの最後尾に位置するのが「笛を吹く少女」。笛を奏でている(次の画像)少女の姿が美しい。

藻岩山から少女像まで一本の線でつながれている。北海道の自然を背景に、それとの調和を図りながら5体の作品が設置されている。これらの彫刻はセットのはずだが平成の再整備でバラバラになり現在に至っている。百花園という舞台を失った彫刻が寂しそうに見えるこの頃である。

「笛を吹く少女」周辺ではボランティアによる清掃が行われている様だ。

いい写真だが、彫刻が単体で写っているのが欲しい。どこかにないだろうか?

← 1989年4月15日 笛を吹く少女
  札幌市公文書館所蔵

昔は、付近の住民が中島公園を誇りに思い、積極的に清掃活動などを行っていたと聞いている。 

ボランティアが定着する以前のことだが住民の意識は高かった。そして、今でもその様な意識は古くからこの地に住んでいる人々に受け継がれているようだ。鴨々川の清掃も町内会の手で定期的に行われている。


景観全体が山内壮夫ワールドだった

5体の彫刻全ては、札幌とゆかり深い彫刻家,山内壮夫の作品である。無限に広がる青空と藻岩山を背景に、花と緑で飾られた空間がある。山内はそこに5体の彫刻を配置して、一つの作品にまとめ上げたのではないだろうか。


1987年9月11日 噴水の真ん中に「森の歌」 札幌市公文書館所蔵

「素晴らしい景観でしょう。 私は山内壮夫ワールドと呼んでいるんです」
「ちょっと待てよ…、どこかで聞いたことあるぞ」
「まあ、いいじゃないですか」
「百花園は北海道大博覧会の跡地を利用して出来たんだな」

「そうですね。1959年の開園で、1995年には早くも閉園しています」
「花の命は短くて、たった36年か」
「変わるのが早すぎるように思うのですが、良くなっているのでしょうか?」

1958年は日本が発展途上にあり、人々の生活は貧しくても将来に希望を抱いていた時期だった。まさにその時、北海道大博覧会が開かれた。その記念事業として造られたのが「百花園」であり上の画像「中央広場」である。

いずれも1995年からの再整備計画で緑のオープンスペース、即ち芝生の広場となった。現在この広場には「香りの広場」と書かれた看板が立っている。

これが本来の姿、「猫とハーモニカ」と「母と子の像」


「猫とハーモニカ」には耳がある。いつからなくなったのか不明だが、私が2001年に見たときは、既に耳が無かった。 
札幌市公文書館所蔵


百花園があった時代、「母と子の像」は水の中。 札幌市公文書館所蔵

野外彫刻の保全

野外彫刻の保全(百花園のコンクリート彫刻の場合)

1958年に開かれた「北海道大博覧会」の記念事業として「百花園」と「中央広場」が整備されたが、この二つは一体になっている。百花園には4体の彫刻、中央広場には「森の歌」が設置された。「森の歌」については平成の再整備の中で長期保存に適したブロンズ像に再鋳造され九条広場に移設された。

問題は「百花園」跡地に残された4体のコンクリート像である。コンクリート建造物の耐用年数は大体は、50〜60年が目安とされている。4体とも50年以上経過し劣化が著しくなっている。「札幌彫刻美術館友の会」では4年前からボランティアを募り経年劣化コンクリート像4体の補修作業を行っている。

補修作業については後述するとして、現状について簡単に触れた後、ここに至るまでの経緯について分かる範囲で説明したいと思う。

芝生の広場(香の広場)はかっての「百花園」


芝生の広場から見える藻岩山も高層ビルに隠れ始めている。札幌コンサートホール・キタラ前の大きなポプラは危険木として伐採された。「笛を吹く少女」だけが50年余り前とほぼ同じ位置にあり藻岩山の方に向いている。


1987年当時の百花園から藻岩山を望む。 札幌市公文書館所蔵

25年前のほぼ同じ場所の画像。当時は「百花園」と呼ばれていた。正面の藻岩山は変わらないが高層ビルがないので開放感がある。右手の大きな木は札幌コンサートホール・キタラ前にあったポプラ。2006年に危険木として伐採された。

彫刻の配置は正面に「森の歌」、左手に「鶴の舞」、そして右手に「猫とハーモニカ」。この画像の外になるが手前の池の中に「母と子の像」、更にその後方に「笛を吹く少女」が立ち、自然と融合した山内壮夫の世界が広がっていた。

百花園(1959年〜1995年)は藻岩山を借景とし、綺麗に整備されていた。中島公園のほぼ中央に位置する素晴らしい施設だった。彫刻「森の歌」を中心に据えた噴水は中島公園のシンボル的存在であった。

平面図で確認する「山内壮夫ワールド」

先ず、空撮の画像で場所の確認。ぼぼ真ん中が百花園と中央広場。

1972年の中島公園、菖蒲池だけは変わらない。 札幌市公文書館所蔵

以下の平面図は札幌市公文書館所蔵
「道博記念事 中島公園百花園 及 記念広場平面図」より切り取り。


左側のひと塊が百花園で右側の丸い噴水池の中心に「森の歌」が据えられていた。円形の周囲を含めて中央広場を形成していたのではないかと思う。私自身はこの二つをまとめて百花園と理解していた。

左側の半円形の中央に「笛を吹く少女」、百花園中央辺りの四角い池中に「母と子の像」、そして中央広場の中心に「森の歌が」配置されている。この3体の彫刻は一本の線上にあり、いずれも藻岩山方面に向いている。


上図左側の半円形状部分を拡大。彫刻と書いた場所に「笛を吹く少女」。


右側の円形状部分を拡大。中央の彫刻は「森の歌」

以上の平面図は札幌市公文書館所蔵
「道博記念事 中島公園百花園及記念広場平面図」より切り取り。

2010年〜2013年 野外彫刻補修作業一巡

平成の再整備で「森の歌」はブロンズ像で再鋳造されて九条広場の中島児童会館前に移された。そして4体のコンクリート彫刻は百花園の跡地、緑のオープンスペースとなった「香りの広場」に再配置されている。

しかしながら、いずれの作品も制作後50年以上経過し、著しい経年劣化を示している。 そんな状況の中で…、

「保全対策は今でしょう!」と、立ち上がったのが「友の会」だった。野外彫刻の調査・清掃・啓蒙活動に実績を重ねてきた「札幌彫刻美術館友の会」、略称「友の会」である。

そして、補修作業は一巡した。2010年「猫とハーモニカ」、2011年「母と子の像」、2012年「笛を吹く少女」、2013年「鶴の舞」と毎年1体ずつ仕上げ、4年間に亘る補修プロジェクトは終了した。パーマシールド処理の有効期間は5年なので来年は休み、2015年から彫刻補修作業を再開することにしている。

2010年8月 第1回野外彫刻補修作業「猫とハーモニカ」


第1回目は子供たちにも人気のある「猫とハーモニカ」。友の会会員は高齢者が多いが、若い人も、その子供たちも参加してくれた。先ず彫刻を綺麗に洗い、乾かした後パーマシールド塗装による劣化防止処置を実施した。

初めての劣化防止作業を「猫とハーモニカ」で試行することにしたのは、高さ80cmと低く作業がし易いことがその理由。成功を確認した上で次の像を手がけることにした。経年劣化したとはいえ大切な美術品だから慎重に対応しなければならない。

2011年7月 第2回野外彫刻補修作業「母と子の像」


前年の経験を踏まえ、コーティング前に徹底した清掃作業を行うことにした。7月10日・19日・20日と清掃を重ねてから、パーマシールド塗装を行った。

友の会の熱心な活動が外部の方々にも知られるところとなり、今回は札幌コンサートホール・キタラの方々も参加してくれた。

ところで、「好いことだから勝手にやっていい」と思ったら大間違い。先ず当局の許可が必要である。 準備作業は、この彫刻はどこで管理しているか調べるところから始まる。

この時点では彫刻管理の窓口はバラバラだった。中島公園内にあるから公園に関する部署というような簡単な話ではなかったそうだ。

2012年6月 第3回野外彫刻補修作業「笛を吹く少女」


パーマシールド液の塗布にはコンクリート表面の乾燥が不可欠だが、幸い天候には恵まれた。液を塗りつける前に徹底した清掃が必要なことは前2回の経験で分かったこと。例えば上の画像にあるように布で彫刻を包んだりした。

彫刻を奇麗に洗ったら、濡れたシーツをかけて包む。水分を充分に彫刻本体に含ませて3時間ばかり放置すると汚れがきれいに取れるのだ。その後、更に徹底的に清掃して一日目の作業は終了した。

この方法は前回の「母と子の像」から取り入れた。 そして彫刻を2回清掃して3回目にパーマシールド塗装を行うことも定着した。補修方法も経験を重ねているうちに次第に進化して行った。

2013年8・9月 第4回野外彫刻補修作業「鶴の舞」


今までは天候に恵まれたが、そのせいか今回は倍返し? 悪天に悩まされた。 8月の晴天は片手で数えるほども無かった。パーマシールド塗装は不可能だし、雨の中の清掃も楽じゃない。

しかし、好いこともあった。雨の中を元気に走り回って彫刻を探す小学生との出会いがあり、図らずも即席彫刻説明会の開催となった。雨の中、子供たちが熱心に説明を聞いている姿が頼もしい。何と言ったってこれからの社会を支えるのは子供たちだ。 全体の内容 → 野外彫刻保全作業

素晴らしい景観を残す道はなかったのだろうか?

再び山内壮夫ワールド思い浮かべてほしい。この空間は大きく変化した。既に藻岩山はビルの陰に隠れ始めている。花と緑と噴水のある「百花園」はなくなり、噴水の中心にあった「森の歌」も姿を消している。


百花園の跡地は芝生の広場となった。右側の大きなポプラは、危険木として切り倒されて今は無い。藻岩山もビルの影響で景観が崩れている。

こうなってみれば、2002年の中島公園再整備に伴い「森の歌」が児童会館前に移設されたのは、必然かもしれない。ところで「森の歌」は、移設に際し長期保存に適したブロンズで再鋳造された。


「森の歌」の周りは花の広場になる計画があった。 2011年7月撮影。

約半世紀前、青空と藻岩山をバックに、開放的で美しい空間が広がっていた。 そこには、それぞれが素晴らしい個性をもつ5体の彫刻が配置され、景観そのものが、まるで芸術作品の様だった。しかもその中心は「森の歌」だった。

しかし、それらは幻のように消え去ってしまった。惜しいことをしたと思う。野外彫刻を含めた景観を、そのまま残す道はなかったのだろうか。

残りの4体の彫刻は、百花園とほぼ同じ場所に造られた芝生の広場(香りの広場)を囲むように、場所を変えて配置されている。

母と子の像 2011年7月撮影

笛を吹く少女 2011年7月撮影

鶴の舞 2011年7月撮影

猫とハーモニカ 2011年7月撮影

こうして見ると、花と緑に囲まれた彫刻もいいものだと見直している。ひっそりとたたずむ「母と子の像」、バラに囲まれて立ち姿が美しい「笛を吹く少女」、緑をバックにした「鶴の舞」、子どもたちが座って遊べる「猫とハーモニカ」。 

それぞれに趣があって素晴らしい。 しかし、「山内壮夫ワールド」は消えてしまった。人・動植物をふんだんに刻んだ「森の歌」は移設され、ビルなどの建設で藻岩山の景観も崩れ始めている。何よりも彫刻たちのステージである「百花園」が消え去ってしまった。

コンクリート彫刻の寿命は長くて60年といわれている。この4体の彫刻については定期的に「札幌彫刻美術館友の会」がボランティアを募り補修作業を続けて行くことにしている。

晴れの舞台は失っても山内壮夫の世界を続けて行くための努力はボランティアの手でなされている。この様な活動を支援する輪が広がれば、いつの日か新しい舞台が構築され、綺麗で住みよい札幌へと繋がるだろうと期待している。

「中島公園・昔と今」を探り続けたい

1958年の「北海道大博覧会」は子供の国と天文台を生み、豊平館を中島公園に定着させた。そして「山内壮夫ワールド」が誕生した。

1992年の「平成の再整備」構想では、水と緑に加え歴史と芸術の公園を目指すことになった。着々と整備されている部分もあるが道半ばの感もある。

中島公園の歴史は、札幌の歴史そのものと言われ、変化を繰り返しながら現在の姿がある。1回目を「山内壮夫ワールド」とし、順次、いろいろな視点から「中島公園の昔と今」を探って行きたいと考えている。

以下、昔の写真:札幌市公文書館所蔵


上の写真と下の写真に写っている野外彫刻は同じ「笛を吹く少女」。百花園でごみ拾いをする子供たち。少女像の後ろにはパーゴラが見える。1989年4月撮影


今でも子どもたちに受け継がれているボランティア活動。2010年6月撮影


百花園近くの噴水池。1962年4月撮影


母と子の像は水の中。1987年9月撮影


大きなポプラも今はない。1987年9月撮影
以上、昔の写真:札幌市公文書館所蔵

山内壮夫作品の昔と今

昔の百花園(1959年-1995年)に山内壮夫の彫刻が5体あった。それらの彫刻は今でも比較的良好な状態に保たれている。それはボランティアによる清掃と補修作業が行われているからと思う。

補修についてだが、「森の歌」は長期保存に適したブロンズ像として再鋳造されたので問題はない。しかしコンクリートづくりの「母と子の像」以下4体の彫刻の寿命は、せいぜい60年と言われている。

この4体のコンクリート彫刻は一部に鉄筋が露出した部分があるものの、比較的良好な状態に維持されている。

耐用年数が限られているコンクリート彫刻がある程度良好に維持されているのは補修作業と清掃のお陰ではないかと思っている。

彫刻清掃と補修作業は「札幌彫刻美術館友の会」が主催し、ボランティア活動として実施している。

森の歌


札幌市公文書館所蔵
噴水の中にそそり立つ白色の像は、花と緑の中で一段と映えている。彫刻は見る角度によって背景が変わる。

上の画像の場合、仮設小屋とビルが景観の邪魔になっている。これとは逆方向に藻岩山を借景とした方向から見れば「森の歌」は見違えるように美しい。

繰り返しになるが、藻岩山に向かって、「森の歌」「母と子の像」「笛を吹く少女」が直線上にに繋がるように配置されている。

つまり、「森の歌」は藻岩山に象徴される北海道の自然を表しているように見える。その背後に「森の歌」を見つめる母子、そしてその後ろには笛を奏でる少女がいる。

これらがひと組になって景観を形成しているように思う。藻岩山の自然、「森の歌」以下4体の彫刻、そして百花園は切ってもきれない関係と思う。

彫刻「森の歌」には北海道ゆかりのものが所狭しと盛り込まれている。動物が何匹、植物がいくつ、ヒトが何人と数えたら面白いかも知れない。円柱状に繋がっているので数えるのがとても難しいのだ。


前述したように、「森の歌」は1997年中島公園のリフレッシュ工事に伴い、長期保存に適したブロンズ像で再鋳造し、場所も中島児童会館前に移された。

その周りは花の広場として再整備されると聞いていたが、未だに何も実現していない。手を付けない内に16年もたってしまった。 忘れられたのだろうか?


ボランティアによる彫刻清掃が定期的に行われている。高圧洗浄機の利用で、高さ6mのブロンズ像「森の歌」の清掃も可能になった。

洗浄機による水洗い後、洗剤を溶かした水をバケツに入れ、上から流す。その後、再び洗浄機で像全体を清掃する。

背の高い像を下から清掃するのは、かなり難しい作業だ。本格的な清掃となれば足場を組んでの高所作業になる。予算の裏づけが必要となってくるだろう。

母と子の像


札幌市公文書館所蔵
後ろにパーゴラと薔薇の花壇が見える。百花園があった頃の「母と子の像」。母子四つの目が「森の歌」を見ている。あるいは遥か彼方の藻岩山を見ているのだろうか。


「母と子の像」は平成のリフレッシュ工事に伴い「香りの広場」の芝生の上に移設された。コンクリート構造物の寿命はせいぜい60年と言われているが、こうして見ると意外に綺麗な「母と子の像」である。

既に紹介したように、「札幌彫刻美術館友の会」の主催でボランティアによる彫刻清掃と補修作業が行われているからである。


この写真は、「中島公園の彫刻守れ」という見出しの記事と共に、2008年7月10日付けの北海道新聞に掲載された。

2007年の「札幌まつり」の最終日(6月16日)の夜、「母と子の像」は何者かにより押し倒された。そして数日後、花火で目も焼かれた。この様な悪戯が繰り返された。

この事件がきっかけでボランティアによる彫刻清掃が始まった。

清掃作業の中でコンクリート彫刻の経年劣化に気がついた。表面がザラザラして、一部の鉄筋は表面に露出している。

このままでは寿命が尽きてしまう。何とかしなければいけないとの思いで補修作業を行うことになった。


補修作業の様子→ 彫刻劣化防止作業

笛を吹く少女


札幌市公文書館所蔵
背景にビルの一部が見える。そこには「アカシア」の文字がある。多分そこに建っていたホテルアカシアのてっぺんの部分と思う。ホテルの跡地には界隈一の高層マンションが建っている。

アカシアホテルはホテルライフォート札幌となり、豊水通を挟んで札幌パークホテルの近くに場所を変えて建っている。

「笛を吹く少女」は百花園の東端にあって藻岩山の方を向いて笛を奏でている姿で立っている。因みに笛は最初からない。

写真が見つからず、周辺のごみ拾いの中で写っているものから切り取った。なお切り取らないオリジナル写真は冒頭に掲載した。


百花園閉園後は緑のオープンスペースになり、「香りの広場」と呼ばれる様になった。そしてその東端に「笛を吹く少女は」が立っている。薔薇の季節には綺麗な花に囲まれて以前と同じように藻岩山を見ている。

百花園等にあった山内壮夫の彫刻、5体の内「笛を吹く少女」だけが、ほぼ元の位置に再設置されている。手持ちの資料では断定するのは難しいが、そう思っている。

猫とハーモニカ


札幌市公文書館所蔵
百花園時代の「猫とハーモニカ」には、当然耳がある。硬いコンクリート製なので自然に落ちるはずはない。悪戯による破損と思う。


耳が無くなり何となく大人しい感じになってしまった「猫とハーモニカ」だが、子供たちには親しまれている。乗ったりして遊んでいることもあるが、可愛がる気持ちで清掃してくれることもある。

鶴の舞


札幌市公文書館所蔵
背景に藻岩山がかすかに見える。この画像から「鶴の舞」は百花園の南側にあったように考えられる。


今の「鶴の舞」の背景はこんもりとした林になっている。抽象的な作品で私には鶴に見えない。

アイヌの舞踊「鶴の舞」で、両手を開いて着物を持ち上げている姿と聞いたことがある。そう聞けば踊っているように見える。

以上、5体の彫刻について百花園時代と現在とを比べてみた。「森の歌」はブロンズ像になり、長期間保存できる状態になった。

一方「母と子の像」以下4体のコンクリート彫刻は、ボランティアの力で何とか良好な状態に維持されている。しかし、経年劣化は避けられない。

5年毎にパーマシールドによる補修作業をするとして、何時まで持つのだろうか。彫刻が先か私が先か、つい考えてしまう。

山内壮夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア』 2012年12月14日版

山内 壮夫(やまうち たけお、1907年(明治40年)8月12日 - 1975年(昭和50年)4月11日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。郷里である北海道をはじめ、日本各地に多くの野外彫刻が設置されている。

山内壮夫の来歴

1907年、北海道岩見沢市に誕生。
1925年、東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)工芸彫刻部に入学。
1932年、国展にて国画奨学賞を受賞。
1933年、国画会会友となる。

1936年、本郷新、明田川孝、柳原義達ら国画会彫刻部有志と造型彫刻家協会を結成、後に佐藤忠良、舟越保武らも参加。
1937年、国画会同人となる。

1939年、国画会を脱会し、本郷新、明田川孝、吉田芳夫、舟越保武、佐藤忠良、柳原義達とともに新制作派協会(現・新制作協会)彫刻部の創設に参加。以後、同会を舞台に活躍。

1945年、北海道札幌市へ戦時疎開(1950年まで)。
1970年、中原悌二郎賞の選考委員となる。
1973年、新制作協会運営委員長に就任。
1975年、病のため東京都大田区の病院にて死去。

山内壮夫の作品

労農運動犠牲者の碑(1949年月寒公園)

よいこつよいこ(1952年円山動物園前)
浮遊(1952年旭川市両神橋)
三人(1954年旭川市大雪アリーナ)

母子像(1955年長崎市長崎国際文化会館)

家族(1955年旭川市忠別橋)
風の中の母子像(1955年旭川市新成橋)

宇部産業祈念像(1956年宇部市)

希望(1957年札幌市民会館前)
隼の碑(1957年旭川市新成橋)

家族(1958年新潟市新潟市庁舎)

春風にうたう(1958年札幌市)

森の歌(1959年中島公園)
笛を吹く少女(1959年中島公園)
母と子の像(1959年中島公園)
猫とハーモニカ(1961年中島公園)
鶴の舞(1961年中島公園)

大地(1964年、本郷新、佐藤忠良とともに共同制作、札幌市北海道銀行本店)
鶴の舞(1966年旭川市花咲大橋)

新潟県戦没者慰霊碑(1967年設置新潟市)
新潟震災復興記念碑(1967年設置新潟市)

山鼻屯田兵の像(1967年山鼻日の出公園)

羽ばたき(1970年設置、道開拓記念館)
隼の碑(1970年旭川市花咲大橋)
花の母子像「愛」(1971年札幌市)

飛翔(1972年札幌オリンピック記念モニュメントとして制作、五輪大橋)

風の中の母子像(1986年設置、新成橋)
風の中の母子像(旭川市、北海道療育園)
子を守る母たち(旭川市、北海道療育園)
子を守る母たちI(1973年設置、北海道立近代美術館)
子を守る母たちII(札幌市)

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